高野山 壇上伽藍・中門「四天王像」

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高野山 壇上伽藍・中門「四天王像」

造立年

不明
推定:819年(弘仁10年/平安時代)

再建年

多聞天像:1819年(文政2年/江戸時代)
持国天像:1819年(文政2年/江戸時代)
増長天像:2015年(平成27年)
広目天像:2015年(平成27年)

作者

創建当初:不明
江戸時代再建時:慶派の仏師(推定)

平成27年再建時:松本明慶(まつもと みょうけい/現代の慶派仏師)

「中門」の読み方

中門は「ちゅうもん」と読みます。

高野山 壇上伽藍・中門の歴史

壇上伽藍には真言密教のシンボルでもある根本大塔、金堂などがありますが、かつては伽藍を守護するために高さ16m、幅26m、奥行き15mの朱色をした2階建て楼門(ろうもん)が建っていました。

この中門は、819年(弘仁10年/平安時代)に創建されましたが、以後、度々発生した火災によりで焼亡した歴史があります。

1843年(天保14年/江戸時代後期)に焼失した後、2015年(平成27年)の「高野山開創1200年記念大法会」に向けた再建計画が成るまでは「中門跡」として基壇のみの姿のままで放置されていました。

2017年(平成29年)3月28日、高野山開創1200年記念大法会に際し、高野山との結縁を望む檀信徒など6万5044人が書き記した「結縁芳名帳(66巻)」が桐箱に入れられ、中門の上層部内の室内に収められています。

中門に関しては以下の別ページにてご紹介しております。

 関連記事:高野山 壇上伽藍「中門(ちゅうもん)」




高野山 壇上伽藍・中門の四天王像

1843年の火災で焼失する以前の中門には、1819年(文政2年/江戸時代)に造立された「多聞天像(毘沙門天)」と「持国天像」が安置されていました。しかし、1843年に伽藍で発生した火災の時になんとか運び出され、壇上伽藍の西塔および大塔に安置されていました。

その後、2012年に松本明慶(まつもとみょうけい)の手により上記、「多聞天像」「持国天像」の解体修復が実施され、その上、新たに「増長天像」と「広目天像」が造立されることになり、2015年(平成27年)4月に完成を迎え、開眼法要が執り行われています。

よって現在、中門裏面表面の両脇の間口に安置される四天王像は、金剛峯寺の依頼によって京都市の著名な大仏師である松本明慶氏によって修復・新造されたものです。

高野山 壇上伽藍・中門「持国天像」

高野山 中門・「持国天像」

  • 造立年:1819年(文政2年/江戸時代)
  • 作者:慶派仏師

持国天は、増長天、広目天、多聞天と共に四天王の一角として位置づけられています。

他にも、東の方角を守護する仏様としても有名です。

安置される位置に関しては、通例では御本堂の本尊に向かい右手前に配されます。

持国天像のよく見かける姿は、革製の中国・唐時代を連想させる甲冑姿に刀剣を手に持っています。

高野山壇上伽藍・中門「多聞天像

高野山 中門・「多聞天像」

  • 造立年:1819年(文政2年/江戸時代)
  • 作者:慶派仏師

多聞天像」は、1尊で祀られるときは上杉謙信の熱い信仰で有名な「毘沙門天(びしゃもんてん)」と呼ばれます。

仏力は四天王の中でもっとも強く、手に持つ戟(げき)もしくは鉾&自らが持つ圧倒的な ぴゃぅわ〜(訳:パワー)によって、業魔を降伏 ( ごうふく )させます。

多聞天は、北の方角を守護する仏様です。

持国天に等しく、多聞天は、増長天、広目天と共に四天王の一角として位置づけられています。

通常の姿形は、同じく唐の革製の胸当てに、左手に「宝塔」と右手には「鉾(ほこ)」を持った姿です。

これは、悪い鬼(悪い心)を捉えて、改心させるとの由来があります。

高野山壇上伽藍・中門「広目天像」

高野山 中門・「広目天像」

  • 造立年:2015年(平成27年)
  • 作者:大仏師「松本明慶」

広目天は、持国天、多聞天、増長天と共に四天王の一角として位置づけられています。

「広目天」は、西の方角を守護する仏様としても有名です。

この広目天像の胸元をよく見ると、昆虫の蝉(セミ)がとまっています。

この蝉には、「蝉の鳴き声は遠くまで響き渡り、悪を退ける」という意味合いがあります。

また、蝉は上空を飛び回って留まる木を見つけることから、”広くすみずみまで見通せる”という意味合いもあるようです。

ただ、厳しくも優しいお顔をした四天王像を拝観すると、不思議と清らかで落ち着いた気持ちになれます。

広目天像は、平安時代以前の彫刻師の作風では、手に筆を持って、逆の手にある巻物に何かを書こうとしている姿が多かったそうです。

つまり、この高野山の中門の四天王像が創建時に存在した四天王像を復原して造立されていると考えるのであれば、平安時代以前より伝わったものだとも考えることができます。

なお、この広目天像と以下の増長天像は仏師・松本明慶氏の手により新たに造立されたもので、上述の持国天像と多聞天像は1819年(文政2年/江戸時代)に造立されたものです。




高野山 壇上伽藍・中門「増長天像」

高野山 中門・「増長天像」

  • 造立年:2015年(平成27年)
  • 作者:大仏師「松本明慶」

増長天は、多聞天、持国天、広目天と共に四天王の一角として位置づけられています。

「増長天」は、南の方角を守護する仏様としても有名です。

広目天と同様に、今度は胸に昆虫の「トンボ」がとまっています。

これは「断じて悪を通さない、後へは引かない」ということを、前にしか飛ばない”昆虫のトンボ”で表したものになるようです。あ〜ア〜♪ 幸せのぉっ○○○よぉ〜ドコぉぅ〜うぇっ♪うぇっうぇっ..by剛

高野山・中門の場所(地図)

高野山 壇上伽藍「中門」は金堂の前方に位置します。また、この中門をくぐった先にある脇道から壇上伽藍蓮池(はすいけ)」や、善女竜王社まで行くことができます。

壇上伽藍の見どころ一覧

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