高野山・奥の院「棺懸桜」

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高野山・奥の院「棺懸桜」

奥の院「棺懸桜」の読み方

「棺懸桜」は「かんかけざくら」と読みます。

奥の院「棺懸桜」の由来

棺懸桜の「棺懸」とは、「懸棺」とも書くことができ、「懸棺」とは「棺を懸ける」と言う意味合いになります。

「懸棺」は主に「中国での故人を埋葬する風習のこと」を指し、詳しくは「崖」などの高い場所から棺(ひつぎ)を吊り下げて、故人が獣(けもの)などから捕食されるのを防ぐために、宙に浮かして埋葬する方法です。

しかし棺懸桜の「棺懸」は少し異なる意味合いを持ちます。

大師・空海が高野山を開山することを許可した天皇である「嵯峨天皇(さがてんのう)」が、842年(承和9年/平安時代)に崩御された時に、嵯峨天皇の御身は棺に収められました。

その際、なんと!棺の一部が裂けて遥か天空へ飛んでいき、「とある1本の桜の木の枝」に引っかかったそうです。

その桜の木とは「高野山・中の橋」近くに自生する桜であり、以降、この桜の木は嵯峨天皇の「棺の一部が懸かった桜の木」と言うことで「棺懸桜」と呼ばれるようになりました。

現在、嵯峨天皇の陵墓は「京都府京都市右京区北嵯峨朝原山町」にあり、「嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)」と言う名前の陵墓で永眠されています。

しかしかつては、この高野山・奥の院にも嵯峨天皇の陵墓があったとされ、ちょうど現在の「柴田勝家のお墓」のあたりに陵墓があったと云われています。

このことは江戸時代の「高野山略図」と呼称される絵図に書かれており、江戸時代以前では存在していたと考えられています。

しかし普通に考えて、棺の一部が大空を駆け飛んで行くなど考えられないことですが、嵯峨天皇は自らが崩御したことを、心から慕っていた大師・空海に何とか知らせたかったのではないかと考えられます。

奥の院「棺懸桜」の場所(地図)

棺懸桜は中の橋の付近に自生しています。(汗かき地蔵の左あたり)

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