高野山・壇上伽藍「中門(ちゅうもん)・仁王像」

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高野山・壇上伽藍「中門(ちゅうもん)・仁王像」

高野山・「中門(ちゅうもん)・仁王像」

制作

創建当初:慶派の仏師(推定)
再建時:松本明慶(まつもと みょうけい/現代の慶派仏師)

高野山中門の読み方

高野山の境内には難しい漢字の表記で読みにくい名前のご本尊や堂舎がありますが、中門は「ちゅうもん」と読みます。

高野山・中門の仁王像「四天王像」

壇上伽藍には、真言密教のシンボルである根本大塔、金堂、御影堂などがあり、その入り口には「中門」がありました。

この中門は、819年(弘仁10年/平安時代)に創建されましたが、火災で何度も焼失した歴史があります。

1843年(天保14年/江戸時代後期)に焼失した後は、「高野山開創1200年記念大法会」に向けて再建されるまでは、放置されていました。

中門は、高さ16m、幅26mの二層造りで朱色をした楼門です。

この中門には、1141年に作られた、「多聞天像」と「持国天像」がありましたが、1843年の中門火災の時に運び出され、壇上伽藍の西塔や大塔に安置されていました。

そして、2012年に「多聞天像」、「持国天像」を解体修復し、「増長天像」と「広目天像」が造られることになりました。

これが四天王像と言われる「仁王像」で、2015年4月に開眼法要されました。

この四天王像は、金剛峯寺の依頼で、京都市の大佛師(だいぶっし)の松本明慶氏によって修復・新造したものです。

高野山 中門・「持国天像」

高野山 中門・「持国天像」持国天は、増長天、広目天、多聞天と共に四天王の一角として位置づけられています。

他にも、東の方角を守護する仏様としても有名です。

安置される位置に関しては、通例では、御本堂の本尊に向かい、右手前に安置されます。

持国天像のよく見かける姿は、革製の中国の唐の時代を連想させる甲冑姿に刀剣を手に持っています。


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高野山 中門・「多聞天像

高野山 中門・「多聞天像」多聞天像」は、上杉謙信の熱い信仰で有名な「毘沙門天(びしゃもんてん)」の別名の仏様になります。

したがって、「毘沙門天(びしゃもんてん)」のことです。

多聞天は、北の方角を守護する仏様です。

持国天に等しく、多聞天は、増長天、広目天と共に四天王の一角として位置づけられています。

通常の姿形は、同じく唐の革製の胸当てに、左手に「宝塔」と右手には「鉾(ほこ)」を持った姿です。

これは、悪い鬼(悪い心)を捉えて、改心させるとの由来があるそうです。

高野山 中門・「増長天像」

高野山 中門・「増長天像」多聞天に等しく、増長天は、持国天、広目天と共に四天王の一角として位置づけられています。

「増長天」は、南の方角を守護する仏様としても有名です。

新規に作られた「増長天像」には、胸元にトンボがあります。

これは、「断じて悪を通さない、後へは引かない」という意味で、前に飛ぶトンボで表したそうです。

増長天が踏みつけているのは、邪鬼(邪気=悪い気)を踏みつけています。

高野山 中門・「広目天像」

高野山 中門・「広目天像」増長天に等しく、広目天は、持国天、多聞天、増長天と共に四天王の一角として位置づけられています。

「広目天」は、西の方角を守護する仏様としても有名です。

「広目天像」は、目を大きく見開いています。

耳で聞いても、その気迫がわかるように胸元にはセミをとまらせたそうです。

厳しくも優しいお顔をした四天王像を拝観すると、清らかで落ち着いた気持ちになれると思います。

この増長天像は、平安時代以前の彫刻師の作風では、手に筆を持って、逆の手にある巻物に何かを書こうとしている姿が多かったそうです。

つまり、この高野山の中門の仁王像が、平安時代以前より伝わったものだとも言えます。

尚、中門に関しては当サイトの以下↓の別ページにてご紹介しております。

高野山 壇上伽藍・「中門(ちゅうもん)」

高野山・中門の場所

高野山・中門は壇上伽藍・金堂の前に位置します。また現在では壇上伽藍の正門にもなっています。蛇腹道から壇上伽藍へ入った場合は、正面に見える根本大塔の前方の金堂を挟んだ前方に位置します。

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