高野山 壇上伽藍・御社(みやしろ)

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高野山 壇上伽藍・御社(みやしろ)

壇上伽藍・御社(みやしろ)

創建年

推定:819年(弘仁10年/平安時代)

再建年

1522年(大永2年/室町時代)
1594年(文禄3年)
2004年(平成16年)

建築様式(造り)

総社:三間社流見世棚造※向かいみて左
高野明神社:春日造※向かいみて中央
丹生明神社:春日造※向かいみて右

屋根の造り

檜皮葺

御祭神

丹生明神
高野大明神
十二王子百二十伴神

発願者

弘法大師・空海

高野山・壇上伽藍「御社」の読み方

高野山の境内には難しい漢字の表記で読みにくい名前のご本尊や堂舎がありますが、御社は「みやしろ」と読みます。

高野山・壇上伽藍「御社」の名前の由来

その昔、この山がまだ、高野山と呼ばれる前、「御社山(みやしろやま)」と呼ばれる山が、この高野山にあったそうです。

そして、空海がこの高野山を開山する時、「御社山」には「山の神」がいました。

その後、空海と山の神と間に様々なヤリトリがあり、空海は「山の神」から、「高野山」を譲り受けています。

そして、空海は高野山を開山するに際して「山の神」を丁重にお祀りすることとしました。

つまり、御社山の山の神に因んだ「御社」が名前の由来になっています。

ちなみにこの山の神の名前が後述する「丹生明神」になります。

高野山・壇上伽藍「御社」の歴史・由来

高野山・壇上伽藍「御社」には、以下のような3つの殿舎(三の宮)が存在します。

  • 総社(三の宮)【向かって左】
  • 高野明神社(二の宮)【中央】
  • 丹生明神社(一の宮)【向かって右】

そしてこれら3つの殿舎には以下↓のような神様がお祀りされています。

  • 総社には「十二王子百二十番神」という神様。
  • 高野明神社には「高野明神」という神様。
  • 丹生明神社には「丹生明神」という神様。

尚、これらの神様が祭祀(さいし/おまつり)された理由や、由来は後述しています。

その他、この高野山・壇上伽藍にはこの御社の他に「山王院」という神社も存在します。

つまり2つ殿舎(神社)が存在することになります。

ただし、山王院は御社の拝殿(はいでん)という位置づけになりますので、実質は「御社」という1つの神社になります。

しかし高野山の開創当初は「御社」ではなく、大師は「明神社」と称して山の神(丹生明神・高野大明神)を祀っています。

一説では、大師は高野山開創の前に麓に位置する天野社(現在の「丹生都比売神社」)の境内に参籠所(さんろうしょ/僧房)を設け、曼荼羅を掲げて「山王院」と名付けて、これを金剛峯寺と位置づけたという伝記もあります。

高野山全体が山の神(丹生明神)の土地であり、その土地を授かった恩恵と縁を重要視して高野山全体を「金剛峯寺」と位置づけたのかも知れません。

現在では金剛峯寺は現存していますが、古来より金剛峯寺の位置づけは変わらず、実際は高野山全体のことを「金剛峯寺」と呼称します。

高野山・壇上伽藍「御社」の御祭神

当初は高野大明神と丹生明神を丹生都比売神社から壇上伽藍へ勧請し「明神社(後、御社)」という社を造営して祭祀されていたようです。

後に時代を経る過程でもう一座「十二王子百二十伴神」が勧請され、現在のような三座の形態になったと考えられています。

以下では壇上伽藍「御社」で祭祀されている神様をご紹介しています。


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「高野大明神」

高野大明神」は「こうやだいみょうじん」と読み、この神様は高野明神社(二の宮)に祭祀されている神様になります。

別名で「高野御子大神(たかのみこのおおかみ)」 、もしくは「狩場明神」とも呼称します。

この神様こそが山(高野山/御社山)に来た大師を案内した神様です。

本来の姿は、狩人の着る「狩猟着」だとも云われております。

大師・空海が高野山へ入山した時に「黒色の白色の2頭の犬」を引き連れた狩猟師が現れ、大師を案内したといいます。

その他の説では、この時の「猟師が実は女性であった説」や「2匹の犬」が、高野大明神が変化した姿であるとも云われております。

後述する「丹生明神(にうみょうじん)の御子神(子神)」とも云われています。

「丹生明神(にうみょうじん)」

丹生明神は「丹生都比売大神(にふつひめおおかみ)」とも呼称され、高野山と同じ和歌山県かつらぎ郡に位置する「丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ)」の主祭神でもあります。

丹生明神「伊奘諾尊(いざなぎのみこと)」の娘神、もしくは「天照大御神(あまてらす おおみかみ)」の妹神「稚日女命(わかひるめのみこと)」と御同体いう説もあります。

この神様は大師に山を授けた「山の神」になります。

少しややこしいのですが、「大師に山を授けた神様」と「山に来た大師を案内した神様」と2柱の神様がいることになります。

高野大明神とは、親子の関係であったと伝わっています。高野山の土地神です。

高野山開創についての真実

大師を案内した説に関しては複雑で諸説あり、本来は2匹の白い犬を連れて狩猟をしていた「和歌山の豪族・丹生氏」が、偶然、山で大師と出会いこれを案内したとの説もあります。

つまり、後世において高野山開創に際しての事実が「神がかったものに脚色された可能性」が示唆されます。

十二王子・百二十伴神(12王子・120伴神)

12王子120伴神は、高野山における「八百万の神(土地神)」と云われています。

「伴神」とは、「ともがみ」と読み、これは「主となる神に仕える神様のこと」です。

十二王子百二十伴神」は、「高野大明神」「丹生明神」の眷属(親類・血族)と云われております。

【補足】丹生都比売神社について

高野山の麓(和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野)には「丹生都比売神社」があります。

この神社では上述の3柱の神様と宮島・厳島神社の主祭神「市杵島比売大神(いちきしまひめ)」がお祀りされています。

市杵島比売大神は神仏習合の時代では「弁財天(弁天様)」として有名な神様です。

丹生都比売神社には当初、丹生都比売大神(丹生明神)の1座のみが祭祀されていたようです。

後、時代を経る過程で祭神が勧請され、増えていくことになります。

この丹生都比売神社は高野山と併せて世界遺産に登録されている神社であり、もとは高野山の寺領であった神社でもあります。

明治初頭に発令された神仏分離令によって高野山から離れて単立の神社になっています。

しかし大師が高野山の守護を祈願し崇敬を寄せた神社であることから、後世においても神前で読経が行われる神社であります。

つまり、現在の日本にはあまり例がない、従来の神仏習合の形態を留めた神社になります。

丹生氏について

丹生氏とは、和歌山に深く根付いた氏族「紀氏」が出自と見られていますが、本来は九州・邪馬台国から和歌山へ流れてきた氏族であり、和歌山を中心に伊勢地方などに勢力を振るった氏族です。
この丹生氏は当初は鉱山業、特に水銀を採掘して繁栄を極めた氏族です。
そして丹生氏に水銀採掘の技術を教えたのが、京都・伏見稲荷大社を創建した秦氏(秦伊侶具)です。
また、あまり知られていませんが「秦氏」と言えば大師・空海の母親の出自でもあります。(大師の母親は秦氏)
ここから見えてくることは大師と丹生氏との間に深い縁があったということです。
大師が高野山に伽藍を開く際、天皇(朝廷)から許しを得ていますが、もう1者許しを得なければならない者がいました。
それが当時、和歌山県を支配していた丹生氏です。
この時、丹生氏と大師との間に交渉が行われ開創に至ったということになります。
また丹生氏は代々、丹生都比売神社の神主を務める家柄でもあります。
当初は丹生都比売神社(丹生氏)から神領の一部を貰い受け、高野山を開創していますが後に丹生氏は歴史上から姿を消し、丹生都比売神社は高野山の寺領になっています。
現在では高野山の寺領から離れていますが、大師と丹生氏との縁は継承されており、これが丹生都比売神社の神前で読経が行われる理由となります。
ちなみに大師が高野山の壇上伽藍に丹生氏の祭神を勧請し祭祀しましたが、これが日本の神仏習合の起源とされています。

高野山・壇上伽藍「御社」の場所

高野山・壇上伽藍「御社」は、拝殿となる山王院の後方、西塔の前に位置します。

尚、御社は禁足地帯となっています。鳥居と御垣の前に賽銭箱が設けられています。

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