高野山・壇上伽藍「西行桜(さいぎょうさくら)」

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高野山・壇上伽藍「西行桜(さいぎょうさくら)」

高野山・壇上伽藍「西行桜(さいぎょうさくら)」

高野山・壇上伽藍「西行桜」の読み方

高野山内には難しい漢字の表記で読みにく名前の仏像や堂舎がありますが、「西行桜」は「さいぎょうざくら」と読みます。

高野山・壇上伽藍「西行桜」の名前の由来

この桜は「西行」という漢字がついていますが、この「西行」とは僧侶のことです。

僧侶になる前は名門・藤原家支流の貴族でしたが後に僧侶へ転身しています。

僧侶へ転身した理由は定かではなく、友人の死をんで、もしくは失恋が原因であるとも云われ、これに関しては諸説、語り継がれています。

僧侶へ転身した後の1149年(久安4年)、西行はこの高野山へ足を踏み入れています。

後に高野山で暮らすことになった時に桜の木を手植えしたと云われており、つまりそのときの桜こそが西行桜になります。


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高野山・壇上伽藍「西行桜」の歴史と西行

壇上伽藍(だんじょうがらん)の「大会堂(だいえどう)」と「三昧堂(さんまいどう)」の間にある桜は「西行桜(さいぎょうざくら)」と呼ばれています。

この桜を手植えした西行は上述したように僧侶でもあり貴族でもありました。

貴族の頃、歌人としても名前が通っており、平安時代末期に編纂(へんさん)された「新古今和歌集」には、最多ともなる94首もの西行の歌が入選しています。

西行は、藤原家支流の家柄であったため、当時では裕福な上流階級の武士の家系に育ち、亡くなった父の後を継いで、17歳で皇室の警護兵になっています。

しかも、ただの武士ではなく、官位をもつ「北面の武士」に選ばれています。

地位だけでなく文武に優れていた西行は、将来を約束されていたエリートでしたが、23歳で全てを捨てて出家してしまいました。

その後、1149年(久安5年/平安時代)、西行が31歳の時、諸国巡礼の旅から帰り、高野山で粗末な仮小屋生活を始めます。

その当時の高野山は落雷火災の被害を受けており、復興のための寄付を集める僧「高野聖(ひじり)」が多数活動していました。

西行も、これに加わって諸国と高野山を出入りしながらおよそ30年間過ごしたそうです。

以上のように西行が高野山に深く関わるようになり、後に三昧堂の移築・修造することになります。

そして移築の際に記念として桜を1本、堂舎の前に手植えをしています。

後にこの桜が「西行桜」と呼ばれるようになりますが、残念ながら西行が手植えした桜は、三昧堂が再建された「文化年間(江戸時代後期)」に枯れてしまっています。

従って、現在みることのできる西行桜は、その後、同じ場所に新たに手植えされた桜になります。

西行が詠んだ「西行桜の和歌」と歌詞に込められた「こんな不思議なエピソード」

西行が詠んだ「西行桜の和歌」と、その歌詞に込められた意味西行桜は、西行の有名な和歌でもあり、現在では「世阿弥の能」の一幕として舞われたりしています。

ちなみに舞台(能)で舞われている西行桜とは、こんな話です。

あるとき、西行が春先に1人で花見をしていたところ、桜の美しさに人が集まってきました。

しかし、人が集ってきたのを煩わしく思った西行は、こんな歌を詠みます。

美しさゆえに人をひきつけるのが桜の罪なところだ」と・・

その日の夜、西行が1人で桜の木の下で花見をしていた時に、ふと眠ってしまいます。

西行はその眠りの中で夢を見みることになり、桜の精が突如、現れ西行へこう告げます。

煩わしいと思うのは人の心であり、桜には罪はない

その言葉を聞いて少し、自分の発言を恥じた「西行」は深く反省します。

そんな西行とのヤリトリの後、桜の精は、西行に「桜の名所」を教えて去っていきます。

ひょっとすると、このような桜の精との出会いが、西行に桜を手植えさせる動機になったのかも知れません。

高野山・壇上伽藍「西行桜」の場所

高野山・壇上伽藍「西行桜」は、蛇腹道から入って右脇に位置する三昧堂の手前、中門から壇上伽藍へ入って不動堂の後方に位置します。

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