【これ10基!】参拝しておきたい!高野山・奥の院「有名人・戦国武将のお墓」一覧

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高野山・奥の院には、歴史上の有名な人物のお墓や「供養塔(くようとう)」などが多くあります。

このようなお墓や供養塔の発端となったのが、高野山への納骨風習であり、大師信仰の普及と共におよそ鎌倉時代から始められています。その後、室町時代後期(戦国時代)に初めて暮石や石造りの五輪塔が建てられるようになり、江戸時代に入ると諸大名(藩主)が暮石や五輪塔を盛んに立てています。

よって現在、奥の院に多数、立っている暮石や五輪塔はほとんど江戸時代初期に建てられたものであるとされていますが、この理由は江戸幕府創始者である徳川家康公が高野山を墓提所と定めたため、こぞって諸大名たちも建て始めたと云われます。

『参拝しておきたい』高野山・奥の院「有名人・戦国武将のお墓」【10基】

例えば、江戸時代の大名たちは、約250藩の過半数の藩主が墓石や供養塔を建てているそうです。

もちろん分骨されたものですが、様々な人々の思いが「奥の院」にきざまれていることが判ります。

以上のことから、以下では少し不謹慎ではありますが、参拝をするという名目で主な有名人・戦国武将の墓石10基の「お墓」や「供養塔」について紹介したいと思います。




高野山・奥の院「松尾芭蕉句碑」

「松尾芭蕉句碑」松尾芭蕉は、紀行文「奥の細道」で知られる江戸前期の俳人です。句碑には金剛峯寺で詠まれた「父母のしきりに恋し雉子(きじ)の声」という句が刻まれています。
奥の院には、「室井きかく」、「高浜虚子」の句碑や「与謝野晶子」の歌碑、「司馬遼太郎」文学碑等もあります。

高野山・奥の院「楽書塚(落書き塚)」

これは、落語家の柳家金五楼(1901-1972)が建立したもので「史跡に落書きをするなら、ここに落書きを」と呼びかけています。

「落書き塚」

高野山・奥の院「ロケット型の慰霊碑」

これは、新明和工業株式会社の墓所ですが、その形状が他の供養塔とは違うため特別目立っています。

このように現在の会社や企業の墓標も多く作られています。

関東大震災霊牌堂と供養塔

説明看板の内容

大正12年9月1日、東京を中心に関東地方に大震災起る。

殉死者10万余人、焼失家屋40万戸に達す。

時の東京市長・永田秀次郎氏が私財を投じてこの霊牌堂を建立してその冥福を祈る

霊名法は一万年保存の法を施している。

奉祀者5万4千500余人

内皇族3人外国人200余人なり

阪神淡路大震災物故者慰霊碑

俗称「阪神大震災」。

日本時間の1995年(平成7年)1月17日5時46分52秒に淡路島北部沖により発生したクソ大地震である。

マグニチュード7.3、犠牲者は6,434人にのぼり、日本のみならず世界中に衝撃を与えた。

忘れもしないワぁタクシめはあの時、あの時間‥‥1人ボンバーマンを楽しんでいたときだった‥。 だからなんや

この供養塔の意義とは、今日、塔の前で手を合わすことができる己が身に感謝をし、犠牲者の方々に対し、冥福を捧げる神聖な場所なのである。

伊達政宗の墓

⬆️奥州 仙台 伊達家の墓所

伊達政宗といえば奥州62万石の覇者として勇名を馳せますが、「伊達男」の語源にもなった天下に聞こえた「伊達の死装束」のエピでも有名。

政宗公は太閤秀吉の小田原征伐の折、父親・輝宗の代からの盟友である後北条氏に与力するか?それともこれを期とし天下に号令をかけ、秀吉に戦をけしかけて天下の趨勢を覆すか?それとも素直に負けを認めて秀吉の陣幕へ参陣するか?

‥‥‥などなどと企みをめぐらせつつ、北条と秀吉の戦況を傍観していたことから、秀吉からの再三にわたる参陣要請に応答せず、それが原因でついに秀吉を怒らせてしまった。

しかし、「のぼうの城」で著名な忍城(おしじょう)以外の北条方の支城は次々と落城と相成り、戦況は秀吉の圧倒的な優勢となる。いよいよ戦のエンドロールが見え始めた。

意を決した政宗は秀吉へ恭順の意を示し、すぐさま軍勢を集め、小田原へ向けて西上させる。

その後、怒り狂った秀吉をなだめるためにとった政宗の策というのが、死装束を着用して秀吉の御前へ進み出ること。

つまり、「もぅ、死ぬ覚悟で貴方様(秀吉)の前に来たんだ」という意志を身体を含めた全身で精一杯に表現したということ。

驚きと共に大笑いした秀吉は政宗を気に入り、会津領を召し上げただけで寛容したとされる。

政宗はこの後も一揆を起こさせて秀吉の御代にヒビを入れようと画策したが、これも失敗に終わる。

この後処理として秀吉の前に馳せ参じることになったのだが、この時着用したもなんと!死装束。

この時は、金泥をぬりたくったクソでかぃ十字架(はりつけ台/=”自分をはりつけるための台”という意味)を引きづりながら町中を歩いて秀吉の御前へ向かぅといぅ、前代未聞のド派手なパフォーマンスを披露。

前回と同様、この時も秀吉は驚きと共に大笑いし、なんと!政宗を許したのだった。

伊達政宗とはまさに、歴史に名を刻んだ古今東西・天下無双の伊達男なのである。イヨっ!ホっ!ハっ!きょっ。  ….”きょっ。”てなんや




高野山・奥の院「結城秀康の石廟(せきびょう)」※越前松平家

高野山・奥の院「越前松平家(えちぜんまつだいらけ)の石廟(せきびょう)」

これは結城秀康と母(長勝院)の石廟です。
秀康は、徳川家康の次男として生まれましたが、豊臣秀吉の養子になり、その後、秀吉に鶴松が生まれたため、さらに結城家の婿養子になった人です。その後、松平に復姓していますが、1607年には家康に先立って他界してしまいました。秀康の石廟は、その長男の「越前松平忠直」によって1607年に造られました。
母(長勝院)の石廟は、1604年に造られています。
「松平秀康及び同母霊屋史跡」は2004年7月に世界遺産に登録されています。

織田信長墓所

現在の太平の世の中の礎を築いた偉大な人物である。その意志は配下の太閤秀吉に引き継がれ、その後、盟友でもある徳川家康公へ引き継がれた。

こうして現在がある。

信長公に感謝! 合掌

高野山・奥の院「崇源院(お江)墓所」

「一番石塔」

この塔は、高さ6.6mで、台石は八畳もあります。

徳川二代将軍の秀忠の妻(崇源院/江姫)の五輪塔です。「崇源院」は、波乱の人生を送った浅井長政の「浅井三姉妹」の末っ子「江姫(ごうひめ)としての名前が有名で親しまれています。

使われている石は瀬戸内海の島から切り出されたもので、これを船で海から紀の川と運び、町石道を人力で運び上げたものだそうです。

高野山・奥の院「高麗陣敵味方供養碑」

「高麗陣敵味方供養碑」

覚ばん坂を登りきると、下りになります。少し進んで左側には「高麗陣敵味方供養碑」という供養碑があります。
1597年に豊臣秀吉が高麗(朝鮮)に進軍して、その戦いで戦没者がでました。この供養碑は、そこで亡くなった人々を敵味方の区別なく供養することを目的に建立したものです。
この供養碑は、薩摩藩(さつまはん)の島津義弘と、その子(忠恒)によって造られました。
これを観た世界遺産登録の事前調査員は、400年以上も前に日本人は、赤十字の精神をもっていたと驚いたそうです。

高野山・奥の院「禅尼上智(ぜんにじょうち)」の墓石

中の橋を渡り、登り坂(覚鑁坂/かくばんざか)の初めには奥の院で最も古いとされる女性の墓があります。これは「禅尼上智」の墓で1375年に建立したものです。【和歌山県指定史跡】の指定も受けています。

なんでも、この墓石に耳をあてると、善人には天の声が聞こえ、悪人には地獄の釜のうなる音が聞こえると言われます。

高野山・奥の院「明智光秀の供養塔」

「明智光秀」の供養塔

さらに進むと、伊達政宗、石田三成の供養塔があって、その隣には織田信長に謀反(むほん)したとされる「明智光秀」の供養塔があります。この「明智光秀」の墓石は割れたままになっているそうです。何故、修復されないのでしょうか。真相を確かめたくなります。

高野山・奥の院「武田信玄と勝頼の墓碑」

「武田信玄と勝頼」の墓碑↑「武田信玄と勝頼の墓碑」

武田信玄と上杉謙信は戦国武将の中でも、ともに甲乙つけがたい名将ですが、埋葬されても奥の院の道を挟んで対峙しています。

高野山・奥の院「上杉謙信と景勝の霊屋(たまや)」

上杉謙信と景勝の霊魂を祀っているお堂は、国の重要文化財に指定されています。

↑「上杉謙信と景勝」の霊屋↑「上杉謙信と景勝の霊屋(たまや)」




高野山・奥の院「同期の桜の碑」と「必救一念石」

↑「必救一然石」↑「同期の桜の碑」↓

↑「同期の桜の」の碑

一の橋を渡ってすぐのところには、奥の院を象徴する碑が二つあります。

左側には、第二次世界大戦の時の特攻隊の供養碑「同期の桜」が、そして右側には同じく大戦で捕虜(ほりょ)となってシベリアに抑留された方々が無事に帰還することを願って建てられた「必救一念石」があります。

この二つの碑は、死者への供養と生者への祈りを表しています。

つまり、この二つの碑を対比することで、奥の院には生と死が同時に存在していることを示していると考えてよいと思います。

↑「必救一然石」↑「必救一念石」

高野山に有名人や戦国武将のお墓がある理由とは?

古より、高野山は「天下の総菩提所」つまり、死者の魂は高野山で弔えば、極楽浄土へ行くことができるとされており、これは大師・空海の偉大さに起因するものとされております。

高野山は、もともと、この空海が開創した土地であり、空海が入滅した後も、その教えや思想などを基とした威光は、今現在に至る後世にまで浸透し、一宗教の枠組みを超越して、我々、大衆の心の奥深くに根付いています。

このように、大師・空海があまりに偉大すぎたため、後世に残された者たちは空海が今も尚、生きていて、宇宙のように広がる、広大な悟りの境地をさらに極めつつあると自識しています。

そんなことから、空海の傍で永眠すれば、極楽浄土へ行けるとの思いが言葉となり、これが伝承とされ、今に至って高野山では宗教の域を超えた墓石群が形成されるに至っているのです。

以上のような理由から、敵であった事や、味方であったこと、家族であったこと関係なく、高野山には様々な有名人や戦国武将たちや、しいては天皇(皇族)のお墓まで軒を連ねて建てられているのです。

奥の院の観光スポット一覧(案内地図)

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