あの空海が生きていた?!高野山・奥の院の即身仏とミイラ伝説と「奥の院・御廟の地下室の謎」

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真言密教では「入定(にゅうじょう)」と呼ばれる究極の修行方法があり、空海(弘法大師)は、835年3月21日62歳の時に「入定」されたと伝えられています。

入定とは?

入定とは、真言密教における究極的な修法の1つであり、生きながらにして仏になるために永遠の瞑想に入ることです。

奥之院の「即身仏」と「ミイラ伝説」

あの空海が生きていた?!高野山 奥の院 即身仏とミイラ伝説と院御廟の地下室の謎※燈籠堂内はもとより、御廟橋から先は写真撮影は禁止です。写真はお借りしたものです。

「今昔物語」によると、空海が入定してから75年後、高野山の寺伝では86年後となる921年(延喜21年)10月27日に、醍醐(だいご)天皇より諡号(しごう/=送り名)の”弘法大師”を下賜されています。

この知らせを高野山へ伝えるために当時、「東寺(とうじ)」の長者であった「観賢(かんげん)」が高野山の大師が座する御廟(ごびょう)へ向かうことになります。

ちなみに東寺とは「とうじ」、もしくは「教王護国寺(きょうおうごこくじ)」と読み、現在の京都駅付近に位置する同じ高野山の宗派の寺院です。

当時の高野山は東寺の管理下に置かれ、つまりは東寺より低い地位が位置づけられていました。

報告へ向かった観賢は無事に大師の座する御廟まで辿り着き、岩窟である御廟の石扉を開いて石室へ入ったところ、以下のような言葉を残しています。

『まるで大師(空海)が生きているように座るお姿があった』

その後、観賢は大師の伸びきったヒゲと毛髪を剃りあげ、醍醐天皇から賜った「袈裟(けさ)」を着替えさせたと伝えられています。

しかし、大師・空海が入定したのが62歳の時です。

62歳から75年後というと、計算上では137歳という途方もない年齢になります。

しかし、真相は誰も知りませんし、依然、不明のままです。

このような伝承や、真言密教の教えである「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」という言葉の意味の取り違えなどから、奥之院には弘法大師の「即身仏」や「ミイラ」があるなどの伝説が生まれたものと思われます。

即身成仏とは?

即身成仏とは「人は生きながらにして仏になれる」とする大師の教えの1つであり、密教における究極の奥義となります。

「生きながらにして仏」とは、すなわち「死」や「滅び」と言う概念がなく、肉体を現世に残しながら瞑想を行い、大日如来と波長を合わせることで仏になれることを意味します。

ちなみに、このような即身成仏の概念は、奈良時代の中国・唐の高僧「不空金剛(ふくうこんごう/「不空三蔵」とも呼ばれる)」が著した「菩提心論(ぼだいしんろん)」に初めて登場した言葉であると云われます。




「入定信仰」の誕生

上述したように観賢が残した言葉は時の権力者「藤原道長」の耳にも入ることとなり、急速に日本中に伝播していくことになります。

この頃から、「大師は135歳となっても、世の安寧と人々の幸福を祈り続けている」と言う信仰が人々の間で生まれ、やがてこの信仰は「入定信仰(にゅうじょうしんこう)」と呼ばれるようになります。

そして藤原道長自身も辞世の句とも言える句に、後世までに残る有名な一句を残しています。

ありがたや 高野の山の岩陰(いわかげ)に 大師はいまだ在(おは)しますなる

これはつまり、135歳となった大師が変わらぬお姿のままで座していることを意味します。

弘法大師・空海の入定の理由

 「弥勒菩薩として生まれ変わるため」

弘法大師・空海の入定の理由の1つに、56億7000万年後に「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」の降臨を待ち、その間、自らが仏となって世の全ての衆生を見守り救済するため、・・などというようなことも云われています。

しかし、そもそも弘法大師が「弥勒菩薩信仰」をもっていたのかについても肯定説・否定説があります。

ただ、弘法大師・空海に紐づくとされる「大師信仰」では、大師が弥勒菩薩と同化する、もしくは弥勒菩薩に随従して、56億7000万年後の「末法時代(仏教の尊さを忘れた時代)」と呼ばれる荒廃したこの世に降臨し、一切の衆生を救済するという説(信仰)もあります。

 即身成仏となって「永遠の瞑想状態に入るため」

すでに上述の通り、「密教の究極奥義の1つ 」として「即身成仏」があります。大師のお考えによれば、次のように解されます。

『我々をとりまく宇宙をふくめた環境すべては、その体現者たる大日如来の身体や言葉、意識の働きである。その大日如来の動きに同調させることができれば、この身のまま成仏できる。』

これは人間とは本来この物質的な肉体を抱えたままで生きながらに仏となり、仏の智慧を得ることができるということです。

大師はこの論理を理論立てて、実際に「即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)」という経典にまとめておられます。

「即身仏」と「即身成仏」の違い

「即身仏」は、平易に言うと「ミイラ」のことを意味します。

しかし、真言宗の「即身成仏」とは、誰もがこの身このまま、この世において悟りを得て仏となることができるという意味になります。

一般的な仏教においても全ての人が悟れるとしていますが、それは「三劫(さんこう)」という長い長い修業の後に会得するという教えです。

ちなみに三劫の期間とは、のぉあんと!「129億6000万年」のこととされ、一劫はこれを3で割った「43億2000万年」とされています。

このように「即身仏」と「即身成仏」は言葉は似ていますが、「即身成仏」は時間や空間という概念を超越したものと位置付けることができ、すなわちすべてを超越した先にある大日如来の法身と同調するために、永遠の瞑想を行うことを意味するものだと解されます。

即身成仏を即身仏と勘違いしてしまうと、ミイラ伝説が生まれても不思議ではないということになります。

なお、上述した「大師信仰」の広まりから、およそ室町時代を境に大師信仰から派生して、実際に「ミイラ信仰」いわゆる「即身仏信仰」なる信仰も誕生しています。

この影響で現在でも山形県に即身仏(ミイラ)が仏として祀られている寺院もあります。

現在の御廟の屋根替えをした人が書いた書物にとんでもない秘密が・・

弘法大師御廟の屋根の葺き替えをされた方が書かれた書籍(2015年初版)によると、以下のようなコメントを確認することができます。

  • 「現在の御廟は、1585年に当時の奥之院の責任者によって建立されたもの」
  • 「しかし、400年以上もの時を過ごしたとは思えない程、壮麗かつ頑健だった」
  • 「真言宗徒でなくても何か不思議な力が作用しているようにしか思えないほどの建物といえる」

などの印象を記載しています。




奥之院御廟の地下室の謎

また、御廟の内部にはもう1つ建物があって、それこそが本当の御廟であり、現在の御廟は「覆堂(おおいどう)」ではないかと言われているそうです。この覆堂こそが1585年に建て替えられたものであり、つまり、「弘法大師御廟」は、弘法大師が入定された場所の上に建立されたと言われています。

奥の院・燈籠堂の地下室への行き方

実は、奥の院・燈籠堂には地下室が存在し、地下室へ入ると上述の大師が座する御廟の地下約3mの「霊窟(れいくつ=神仏の御霊が宿る岩穴)」から、数十メートルのところで正対してお参りできるようになっています。

燈籠堂の地下室へ行くためには、燈籠堂の通路を時計廻りに歩き、真裏に向かう形で進むとやがて眼前に弘法大師の御廟が出てきます。

御廟の内部へ入ることができませんが、前でお参りすることができます。

御廟を参拝した後、さらに時計廻りに進むと「地下法場(法場/ほうじょう=修行をする場所)」にへ続く、階段が見えます。

その階段を降りた先が燈籠堂の地下室です。

奥の院「灯籠堂」および「地下室」への案内地図

この地下室の最奥には、弘法大師の肖像が描かれた額絵が飾られています。

燈籠堂の地下は、まるで迷路のような造りであり、弘法大師の肖像が描かれた額絵の後方は石壁になっていますが、その石壁の向こう側が、ちょうど大師が座するとされる御廟の岩窟と云われています。

奥の院・灯籠堂の地下案内図

一説によると、霊窟は地下4.5mに掘られた1.8m四方の石室で、石室の内部に石棺があり、その中に弘法大師が座して入定しているそうだョ。僕を閉じ込めるなんてこと考えたらスネちゃうョ。僕はスネると怒り狂って筋肉モリモリになって、ものすんごくコワい、オジさんに変身するんだゾぉ。

石棺には魂が出入りするための孔が開けられているともいわれています。

霊窟の詳細は、判らないことが多くて興味はつきませんが、学術的な調査を行えばある程度は解明されると思います。

しかし、1000年以上も御廟を守ってきた歴史には敬意を表さざるを得ません。

ただ、真実とは謎の中にある方が良いのかもしれません。

現代まで大師が座する御廟の地下へは本当に誰も入ったことがない??

維那のみが知る御廟

この高野山奥の院では、後述する「生身供(しょうじんく)」と呼ばれるものを僧侶が3人で燈籠堂を経由して大師の座する御廟へ運ぶ儀式が1200年間、毎日欠かさず行われています。

3人のうち2人は、食事の入った小箱に図太い木の棒を通して肩にかけ、もう1人は儀式を執り行う「維那(いな)」と呼ばれる高僧であり、2人を先導します。

この高僧だけが御廟に入って大師に食事を届けることが可能で、残りの2人は御廟に入ることができない決まりになっています。

さらに驚くことになんと!高野山内で御廟に入ることができるのは、この「維那(いな)」たった1人だと云われています。

つまり、「維那」は大師のお姿を見ていることになります。

ただし、「維那」の役職に就任した者は、御廟内部のことは一切、他言してはならないというキツい掟があるようです。

よって、この世で御廟の中のことは「維那」のみが知ることとなります。




「生身供」とは?

実は現在、御廟に座する大師には、1年365日、1日に2回、食事が届けられています。

この食事は奥の院・御廟橋近くの「御供所(ごくしょ)」という場所で作られ、御供所の横の「味見地蔵(嘗試地蔵/あじみじぞう)」と呼ばれるお地蔵さんへ一旦、捧げて毒味をする儀式が執り行われてから届けられます。

毒味の儀式が終了した後、いよいよ大師が座する御廟へ届けられますが、この大師へ食事を届ける儀式すべてを総称して「生身供(しょうじんく)」と呼称します。

生身供の時間(1日2回)

  • 毎朝6時
  • 10時30分
生身供のメニュー

  • 精進料理(朝食:ご飯1汁2菜、昼食:ご飯・1汁3菜・デザート)
  • パスタ※時折
  • 揚げ物※時折
  • 果物
  • コーヒー..etc

正月には「おせち料理」が運ばれたり、大師が入定された日には「衣服」も届けられます。

また、燈籠堂内でも生身供の儀式が執り行われており、この儀式は上記の時間に一般参詣者も見学することが可能です。

終わりに・・

弘法大師・空海は本当に今もなお、御廟の地下で座り続けて瞑想中なのか?

大師が実際に今もなお、瞑想中なのか?という疑問が沸き起こりますが、実際のところこれには諸説あって、入定説は否定できませんが、現在では火葬されたという説が有力視されているようです。

例えば、835年(承和2年/平安時代)3月25日に大師の入定に対して哀悼の意をしたためた淳和天皇(じゅんなてんのう)の弔書(ちょうしょ/人の死を悼む書状)には、次のような記述が残されています。

荼毘(だび)を相(あい)助(たす)くることたがわず

この文を解読して簡単に訳せば「”荼毘=火葬”にされた」という意味合いになります。

すなわち、この淳和天皇の弔書を「正」とするのであれば、入定された数ヶ月後に遺体が運び出されて丁寧に火葬にされた後、御廟に納骨されたという解釈も成り立つということです。

なお、現在のように大師が行なった「入定」という行動は現代ではキャナリ(訳:=かなり)特別視されていますが、そもそも「入定」という言葉が頻繁に記述に見られるようになったのが平安時代後期からであり、だとすればそれまでは特に特別視されていなかったことになります。

ただ、現在に至っては、真実を知るものは今や上述、代々の「維那」のみとなり、すなわち真実は闇の中ということになります。ウフ

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