高野山・宿坊「無量光院」

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高野山・宿坊「無量光院」

あまり知られていない!上杉謙信と高野山・無量光院との関係

戦国時代に「軍神」と讃えられ、戦国大名の誰しもが恐れた、越後(新潟県)の大名「上杉謙信」が、高野山で修行をしていたエピソードがあります。

当時「輝虎」と言う名前だった「謙信」は常態化する、家臣たちの領地の取り合いに嫌気がさして、ついに家臣たちにこう言ってお城を出て行きました。

「自らの領地を分け与える!好きにするが良い!」

そしてさらに輝虎(謙信)は、殿様の地位をも捨ててお城を後にしました。

お城を後した輝虎が向かった先は高野山でした。

高野山に着いた輝虎は、なんと!・・出家して僧籍に入ってしまいます。

そして、この高野山の山中で家臣たちが土下座して頭を下げに来るまで修行を続けたと言います。

この時、僧侶となった輝虎に、高野山・「無量光院」の3代目の住職「宝幢寺清胤(ほうどうじ せいいん)」は、輝虎に「謙信」と言う法名を与えたと言います。

その後、上杉謙信は、「不識庵(ふそんあん)」と、称して法号を改めて「不識庵 謙信」と称したと言います。

高野山・「無量光院」の住職「清胤」は、輝虎に「謙信」と言う法名を与えた↑謙信と深い縁のある高野山「無量光院」

高野山の参拝の際に「草庵」と呼ばれる↑現在も残る「草庵」高野山・玉泉寺

名だけの寺院と大名の関係

大名の中には年に幾度となく、高野山へ足を運ぶ大名もいました。

年に幾度となく高野山へ参拝する大名は自らが参拝した際に、道中で身体を休める宿が必要でした。

そこで宿代わりとする場所を作るために「草庵」に目を付けたと言います。

草庵へお金を出資して、草庵を大きく改築し「寺院」とし、さらに宿坊として宿代わりにしていました。

しかし時代の流れとともに戦で滅んだりする大名家や、お家がなくなったりする大名家も出没し、これらの草庵から成った寺院も、主人を失うと同時に歴史から姿を消して行くこととなります。

高野山・無量光院の場所(地図)

高野山・無量光院は金剛峯寺から徒歩約5分、距離約500mほどの場所に位置します。

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