【入場料いるけど御朱印アリ】高野山・徳川家霊台【重要文化財】【世界文化遺産】

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高野山・徳川家霊台【重要文化財】【世界文化遺産】

創建年

1643年(寛永20年)※江戸時代初期

建築様式(造り)

宝形造

発願者

高野山 大徳院(許可は徳川家光)

女人堂及び徳川家霊台の拝観停止、新別殿利用停止のお知らせ

御参拝の皆さまへ

新型コロナウィルス感染症の感染拡大予防の為、女人堂及び徳川家霊台の拝観並びに金剛峯寺内新別殿(お茶接待所)の利用を停止させていただく事になりました。
御参拝の皆さまにはご迷惑をお掛けいたしますが、何卒事情ご賢察の上、ご理解を賜りたくお願い申し上げます。

合掌

※女人道及び徳川家霊台の御朱印については金剛峯寺納経窓口にて対応させていただきます。

変更になる可能性もありますので、詳細は金剛峯寺公式サイトをご覧ください。

徳川家霊台の読み方

徳川家霊台は「とくがわけれいだい」と読みます。

「霊台」とは?

霊台とは、故人の御霊(魂)を祀った霊廟になります。

徳川家霊台の別名

江戸時代には「おたまや」(御霊屋)と呼ばれてい‥‥‥申す。ゲハっ


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徳川家霊台の構成

徳川家霊台は後述しますが、江戸幕府初代将軍「徳川家康」と2代目将軍「徳川秀忠」を祀る霊台です。

徳川家霊台には2人の将軍が別々に祀られいますので、霊廟が2つあります。

それぞれの霊廟は同時に造営されたため、完成された年代が異なりますが、概要は次のとおりです。

以下、一部画像引用先:https://ja.wikipedia.org

家康公・霊屋(たまや)【重要文化財】※向かい見て右側※

造営年

1641年(寛永18年/江戸時代初期)

建築様式(造り)

一重・宝形造
一間向拝、軒唐破風付

屋根の造り

銅瓦葺

大きさ

四辺:約6メートル

重要文化財指定年月日

1926年(昭和37年)4月19日

所有・管理

金剛峯寺

秀忠公・霊屋(たまや)【重要文化財】※向かい見て左側※

造営年

1633年(寛永10年/江戸時代初期)

建築様式(造り)

一重・宝形造
一間向拝、軒唐破風付

屋根の造り

銅瓦葺

大きさ

四辺:約6メートル

重要文化財指定年月日

1926年(昭和37年)4月19日

所有・管理

金剛峯寺


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徳川家霊台の歴史

高野山内には2つの東照宮があった

実は、江戸時代初頭の高野山内には日光東照宮に代表される東照宮が2宮、ありました。

  • 興山寺の東照宮
  • 大徳院の東照宮

興山寺の東照宮とは?

興山寺の東照宮とは厳密にいうと興山寺という寺院の中に造営された東照宮のことです。

この興山寺とは、1590年(天正18年)に太閤秀吉の発願により建立された寺院であり、現今の金剛峯寺の前身となる寺院です。

江戸幕府が成立し、徳川家の時代が到来した頃、高野山は太閤秀吉の庇護を受け、豊臣家に多大な恩恵を受けていたことから、徳川家に対して寺領が没収されるかどうかの瀬戸際に立たされていました。

この頃、高野山内には「高野三方」と呼ばれた「学侶」「行人」「聖」の三派が山内を事実上、牛耳る形で管理しており、寺の存続を図ることが急務だったのです。

そこでまず、学侶派の青巌寺(金剛峯寺の前身となる寺院)が境内の主殿に家康公の尊像を奉安し、これを本尊と仰ぎます。

ちなみにこの青厳寺は1592年(天正20年)に太閤秀吉が母ジャである大政所の追善のために木食応其上人に命じて建立された寺院です。

これにつづき、1628年(寛永5年)に行人派の興山寺が境内に東照宮(興山寺東照宮)を造営します。(3年後に落慶)

大徳院の東照宮とは?

聖派では度重なるお願いの末、なんとか3代将軍・徳川家光の協力をとりつけ、初代将軍の家康公の御霊を奉安する東照宮と、2代将軍の秀忠公を奉安する台徳院殿の御霊屋を建立します。

この大徳院東照宮は2代将軍・秀忠公が逝去した翌年となる1633年(寛永10年)に3代将軍・家光公によって建立が開始されてい‥‥‥申す。ガハっ

大徳院東照宮は完成まで実に10余年もの歳月をかけるほどの家康公に対する尊崇の念と幕府の威信がかけられており、1643年(寛永20年)4月17日に落慶法要が営まれてい‥‥‥申す。グホっ

このように家康公の尊像にしろ、東照宮にしろ、徳川家康公を奉斎するには当然、幕府や徳川家の許可が必要になりまする。

逆に言えば、これは幕府の注目を集めるキッカケでもあり、高野山は総力をあげて煌びやか絢爛豪華・荘厳な東照宮造営を行い、はたまた家康公の尊像を手厚く奉斎したのです。

大徳院とは?

大徳院とは、1594年(文禄3年)に徳川家康公が豊臣秀吉に随伴する形で高野山へ参詣した折、家康公により賜った寺号です。

つまり、1594年(文禄3年)に誕生した寺院ということになりまするが、以前は「光徳院」という寺号の寺院でした。

光徳院とは?

光徳院とは、「紀伊続風土記」に記された内容によれば、1183年に弘法大師空海が草庵を結んだ場所の跡地(金剛峯寺の東隣)に、開基となる「快仙僧都」により建立された寺院です。

1300年代(室町時代)になると、松平氏(徳川家康の祖先)始祖・松平親氏が蓮花院の檀家となりまする。

1535年(天文4年)に家康公の祖父である「松平清康(まつだいらきよやす)」の遺骨が納骨されたことにより、蓮花院から「光徳院」と寺号を改め、同時に松平家の菩提寺になってい‥‥申す。ゴハっ

ところがドッコイ!明治時代に再び「蓮花院」に戻る!

後述するように明治初頭に明治新政府により神仏判然令(神仏分離令)が発令されることになり、この煽りを受け、旧地からの移動を余儀なくされ、現在地に移り、同時に「蓮花院」の名前に戻しています。

当寺は徳川家(松平家)の菩提寺であったことから、明治政府の注目を集める的であり、移動することで警戒心を和らげるなどの賢明な対処とされたのでしょう。

現在の徳川家霊台の誕生

蓮花院は名前を改めて移動しましたが、旧地には10余年もの歳月をかけて1643年(寛永20年)に完成させた大徳院東照宮が残ってしまいました。

実はこの大徳院東照宮こそが現在の徳川家霊台と呼ばれるものです。

現在、大徳院の東照宮は「徳川家霊台」と改称し、金剛峯寺の所管のもと、一般公開される運びとなってい‥‥‥申す。ゴハっ

なお、蓮花院は移動した先で現在は宿坊として現存しています。宿泊することで色々と昔話が聞けるかもしれませんゼ!

高野山・蓮花院と徳川霊台の位置関係図

興山寺と青厳寺の廃絶

明治新政府は「神仏判然令(神仏分離令)/慶応4年3月13日(1868年4月5日)から明治元年10月18日(1868年12月1日)」を発令し、この影響により、高野山内では、1869年(明治2年)にる興山寺と青巌寺が合併する運びとなり、「金剛峯寺」という名前の寺院として存続を図ることになりまする。

つまりこの時点で興山寺もしくは、青巌寺としての歴史は終焉を迎えたことになりまする。

この時、興山寺の東照宮にて奉安されていた家康公の尊像や文禄三年連歌懐紙(家康公が生前、高野山で詠んだ歌)などもすべて金剛峯寺に移されます。

明治初頭に興山寺が全焼

1872年(明治5年)に悲運にも興山寺(旧)は境内が全焼しています。紀伊続風土記によれば、往時の興山寺は高野山屈指の大伽藍を擁する寺院でした。

1886年(明治19年)になると、旧興山寺跡地に「高野山大学林」が創設され、現在は「金剛峯寺の奥殿」が建ってい‥‥‥申す。グハっ あ、”グハっ”2回目やったか

明治時代以降の徳川家霊台の歴史

1888年(明治21年)に焼失するまでは、霊台の境内を向かいみて右端に3代目将軍以降の歴代の将軍および御三家の尊牌堂(そんぱいどう)が築かれていましたが、焼失後は再建されることなく現在に至ります。

その後、保全修理が繰り返され、1962年(昭和37年)には解体修理されています。

高野山・徳川家霊台の建築様式(造り)

造りは日光東照宮に見るような繊細や彫刻や細部に取り付けられた飾り金具など江戸時代を象徴する建造物と言えます。

宝形造(ほうぎょうづくり)」のほとんど同じ造り建物が2つ並んでいますので殿舎手前の表札を見るまで見分けが付きません。

向かって右側が「東照宮(とうしょうぐう)家康霊舎(おたまや)」で、左側が「台徳院(たいとくいん)・秀忠霊舎」です。

高野山・徳川家霊台の建築様式

宝形造

宝形造(ほうぎょうづくり)とは?


宝形造とは、三角型の4枚の屋根を組み合わせて、正方形の屋根の形にすることを「宝形造り」といいます。(一重)宝形造(ほうぎょうづくり)とは?

高野山・徳川家霊台の大きさは奥行:約6.5m(3間)、横幅:約6.5m(3間)の一重宝形造の建造物となります。

以前は境内の東端に3代将軍以下および御三家の「尊牌堂(そんぱいどう/=位碑を祀る堂舎)」がありましたが、1888年(明治21年)に焼失しています。

内部は絢爛豪華(けんらんごうか)で、本尊を安置する「須弥壇(しゅみだん)」と仏像や位牌を安置する「厨子(ずし)」があり、他にも「漆(うるし)」、「金箔」、「壁画」で、装飾されています。

しかし残念ながら通常、内部は立ち入ることができません。不定期で特別一般公開されています。

徳川家霊台の特別一般公開の情報は金剛峯寺(高野山)のHPや霊宝館のHPで確認することができます。

尚、徳川家霊台は1926年(昭和37年)4月19日に国の重要文化財に指定され、続く2004年(平成16年)7月1日には世界文化遺産の指定を受けています。


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徳川家霊台の見どころ

鳥居が建てられている理由は?

徳川家康公は死後、「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」という勅諡号(ちょくしごう)を下賜されていますが、これは後水尾天皇から贈られた「神号」になりまする。

つまり、神様という扱いになることから、家康公の神霊を奉斎する全国500余社の東照宮は寺院ではなく、分類上では神社になっています。

「東照宮」は当初、「東照社」でしたが、1645年(正保2年)に宮号の宣下があり、宮号が付され東照宮を名乗ることが許されてい‥‥‥申す。

虎と兎があしらわれた蟇股の装飾に注目!

家康公霊舎の向拝には「虎」、台徳院(秀忠公)霊舎には「兎」を表現した透かし彫りがあしらわれています。

家康公霊舎の「虎」

台徳院(秀忠公)霊舎の「兎」

⬆️いずれの蟇股に上に天女のレリーフが見える。

実はこの蟇股で表現されている動物は家康公と秀忠公の干支に割り当てられる動物があしらわれているのです。

  • 家康公=寅年
  • 秀忠公=卯年

煌びやかなかざり金具の装飾とレリーフ

家康公の御霊舎の装飾

秀忠公(台徳院)の御霊舎の装飾

デザイン的な構図は双方の霊舎ともほぼ同じ。

正面扉はかざり金具が取り付けられた桟唐戸で上部に天女のレリーフの羽目板の意匠が光る。

堂舎は基本、彩色を用いない白木造りで軒下に出組を四辺にわたり巡らせた詰め組が見える。

六葉に徳川紋(三つ葉葵)と控えめに徳川紋が散らされているのが不思議。公式の東照宮への配慮か。

目がいくのは壁面の板壁を雲形にくり抜いて透かし彫りのレリーフをはめ込んだ意匠。白木造りの意匠にまるで女性が勝負日に勝負パンティを履いて、真紅の紅を💋唇に濃く付けたような塗装がひときわ映える。これは金色に光り輝くかざり金具の輝きを凌駕する。ふぉっふぉっふぉっ….

四辺へめぐらせた高欄にも、かざり金具を用い縁を煌びやかに染め上げる。

いずれにしろ白木造りがなければ東照宮とさして変わりがないほどの出来栄えの殿舎である。

あえて彩色を用いず、白木造りを貫いたのは日光や久能山などの東照宮に配慮した目立たせないようにするための対策であり、意匠か。


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徳川家霊台の御朱印

この徳川家霊台では御朱印を授与することができます。

東照宮で授与した御朱印のように御朱印の中央に徳川家の家紋である水戸黄門の印籠の「葵紋(あおいもん)」の朱印が押印されています。

  • 御朱印の値段:300円
  • 御朱印の授与場所:霊台入口受付(入場するときに朱印帳をあずける)
  • 定休日:徳川家霊台は正月期間中は休みですのでご注意ください。

徳川家霊台の内部は公開しているのか?「内部の様子が知りたい」

徳川家霊台の内部は通常非公開です。

外観と同様に四方の壁には黄金の柱が立ちその柱間には松・鳥を基調とした蒔絵が描かれ、天井は折上げ式格天井で組まれており、天井と柱の間には極彩色の出組が用いられている。

⬆️徳川家霊台の内部の様子(金剛峯寺のパンフレットより引用)

床は畳敷きでその上に黄金の高欄付きの豪華な須弥壇とその上に唐破風付きの黄金の入母屋屋根が据えられた宮殿(くうでん/厨子)が置かれている。

宮殿の屋根は大仏様(禅宗様)を示す放射状の扇垂木で組まれ、その下に黄金色の詰め組が配される。

宮殿の扉は観音開きの黄金色の眩いばかりの桟唐戸。内側に唐草か波紋のような文様とその下に徳川家の家紋(三つ葉葵)が見える。

桟唐戸の手前に「東証大権現(家康公の謚号)」と書かれた札が立てかけられており、内部に家康公の御霊が奉安されていることが分かる。

宮殿のみならず、宮殿を覆う殿舎内部の装飾を見まわしても、一面が眩いばかりの黄金色でうめつくされている。

これは日光東照宮や大猷院と比較してみても負けじと劣らないものであり、絢爛豪華さでは東の東照宮、西の高野霊台と言われるだけのことはある。

ただ、外観と内観の違いあり過ぎて、外観を素木造りにした真意が知りたいところである。オホ

隔年?秋口になると内部一般公開される?

例年か隔年かは分かりませんが、秋口になると内部が一般公開されることがあるようです。2013年例で言うと10月12日〜10月20日まで内部が一般公開されていまする。

内部を拝観されたい方は秋口に一度、高野山 金剛峯寺へ問い合わせてみてはいかがでしょうか。

【補足】江戸時代の徳川家霊台の姿

家系の画像は「紀伊國名所図会」に描かれた江戸時代後期の徳川家霊台です。

この鳥瞰図を見たかぎり、現在と配置がさして変わっていないことが分かる。ただ、この絵図が1888年(明治21年)の火災前に描かれたことが分かる証拠となるものが、両御方の右端(東はし)に描かれているが、これこそが上述した「尊牌堂」であろう。

尊牌堂は方形造りで基壇を有し、両御方の御霊やよりもひと回りほど小さいことが分かる。

ちなみに下掲写真は現在の徳川家霊台の姿である。

この写真を見るかぎり、やはり右端に宝形造りの前述、尊牌堂と思わしき建物がない。空き地になっていることが分かる。

高野山・徳川家霊台の入場料金・営業時間・駐車場

こちらのページでご紹介する料金などは変更になっている場合がありますので、最新情報は公式ホームページなどでご確認ください。
  • 拝観料:200円(共通拝観券は1500円)
  • 拝観時間:8時30分から17時(※拝観受付終了は16時30分)
  • 駐車場:ありません
  • 電話番号:0736-56-2011

高野山・徳川家霊台の場所(地図)・アクセス(行き方)

住所:和歌山県伊都郡高野町高野山682

高野山 金剛峯寺の東門から出て徒歩約10分/距離約650m

最寄駅(最寄バス停)

南海りんかんバス「波切不動前バス停」下車

ケーブルカー高野山駅前から乗車した場合の「バス所要時間・バス料金」

バス所要時間:10分
バス料金:250円

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