高野山 壇上伽藍「孔雀堂」【国 史跡】
創建年
- 1200年(正治2年)
再建年
- 1983年(昭和58年)
建築様式(造り)
- 入母屋造り
- 平入
屋根の造り
- 桧皮葺
重要文化財指定年月日
- 1908年(明治41年)1月10日
御本尊
- 孔雀明王像
発願者
- 後鳥羽法皇
※造営者(創建)は延杲
高野山 壇上伽藍・「孔雀堂」の読み方
孔雀堂は「くじゃくどう」と読みます。
高野山 壇上伽藍・「孔雀堂」の歴史・由来
1199年(正治元年)、この年は近畿地方を中心として雨が降らずに作物は育たず、人々は貧困に窮しました。
この状況を重く見た時の天皇・後鳥羽法皇が声を上げ、京都市中京区に位置する真言宗の寺院・「神泉苑(しんせんえん)」にて「雨乞いの祈祷」が行われることになりました。
この時、祈祷を行ったのは真言宗の寺院で有名な京都駅付近に位置する「東寺(とうじ/教王護国寺)」の僧侶「延杲(えんごう)」であり、延杲が祈祷を行うと、ぬっ、ぬっ、ぬっ、ゴホっ、ぬぅぁんと!瞬く間に天から大粒の雨が降ってきたそうです。
法皇や民は歓喜に沸き立ち、直ちに延杲の功績を称えるため、翌年の1200年(正治2年)、ここ壇上伽藍に孔雀堂建立の発願を行い、造営されることになります。
しかし1926年(昭和元年)に壇上伽藍の境内の金堂において原因不明の出火が発生し、その延焼によってこの孔雀堂も焼失しています。
その後、すぐに仮の堂舎が造営され、以降、1983年の再建まで仮堂のままでしたが、1983年に開催された「弘法大師・空海 入定1150年御遠忌事業」の一環で再建されています。
なお、この孔雀堂は1908年(明治41年)1月10日に国の重要文化財の指定を受けています。
孔雀堂の名前の由来
孔雀堂と言う堂舎の名前の由来は「孔雀明王」に由来します。
鎌倉時代の日本では大陸(中国)から「孔雀信仰」と言うものが伝来し、広まりをみせていました。
この信仰では孔雀は吉鳥であり、幸運をもたらす鳥として篤い崇敬が寄せられました。
すでに上述しましたが、祈祷によって見事に雨が降ったことから、孔雀を祀るために著名な慶派の仏師・「快慶(かいけい)」の手によって孔雀明王像が造立され、後にこの孔雀堂に奉納されています。
高野山 壇上伽藍・「孔雀堂」の建築様式(造り)
堂舎全体の色合いとしては、質素な素木造りの堂舎となります。
垂木は繁垂木(しげたるき)で組まれており、堂舎の正面には四辺には「縁」が回っています。
正面には向拝(こうはい/=庇ひさし)が付き、その下には上下開閉式の蔀戸(しとみど)が据えられています。
堂舎の総体的な組物は一手先(出組)で組まれています。
一見すると由緒ある歴史的建造物のような景観を持っていますが、残念ながら現在見ることのできる姿は1983年(昭和58年)に再建された時の姿となります。
創建当初の姿を見てみたかったと言うのが本音です。
「孔雀堂」の御本尊・孔雀明王像について
孔雀堂の御本尊である孔雀明王像は現在は高野山・霊宝館にて安置されています。
高野山・霊宝館については、当サイトの以下の別ページにてご紹介しております。
また御本尊の孔雀明王については当サイトの以下の別ページにてご紹介しております。
高野山 壇上伽藍・「孔雀堂」の場所(地図)
壇上伽藍・孔雀堂は鐘楼の後方、准胝堂の向かって左脇に位置します。孔雀堂の向かって左脇には西塔があります。
壇上伽藍の見どころ一覧
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