高野山に180基もある五輪塔の形をした町石の意味とは?本当に道しるべなのか?|町石の歴史(起源)

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高野山「町石」【国指定 史跡】

制作年:鎌倉時代〜大正時代まで様々

高さ:約4〜5メートル(埋没している部分が約1.5メートルなので飛び出している部分は約3メートル)

※町石は元来、長さがほぼ均一であったとされるが、地中に埋没させる部分の長さが地殻変動やその他諸々の諸事情によって変わったりしているので、4メートルのモノもあれば5メートルのモノもある。

1周の長さ:約80㎝

形状:五輪卒塔婆形の石柱

材質:花崗岩(一部、砂岩)

奉納者:鎌倉時代から江戸時代までの様々な人々(身分は割と高い人々)

「町石」の意味とは?

町石とは、町中の道ばたに丁目ごとに置かれた石のこと。丁目とはある土地を複数の区画に分けたときの1つの区画の呼称を意味しまする。

別名「町石卒都婆」。

1685年に成立した浮世草子『椀久一世の物語』では次のように記されてい‥‥申す。ゴヒャ

『旅人の心やすめに建置かれし丁石(チャウイシ)の書附』

「町石道」とは?

町石道とは前述の町石が1町(約109メートル)ごとに建てられた道のことです。

町石道の名称の由来は、ご察しのとおり、1町(約109メートル)ごとに道標(道しるべ)として「町石(ちょういし)」が配置されている道ということから「町石道」と呼ばれまする。


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町石道の距離はいくら?ドコからドコまで続いている?

現在では登山愛好家でなければなかなか知らない事実かも知れませんが、実は慈尊院(九度山)から大門を経て壇上伽藍までの道のりは「町石道(ちょういしみち)」と呼ばれており、これは道中の約109メートルおきに目印となる番号が付された「町石」と呼ばれる石碑が建てられていることに由来した呼称です。

この町石は慈尊院から壇上伽藍まででトータル「180町石」存在し、ちょうど180町目(町石に記された数字は慈尊院が180町目壇上伽藍は1町)が壇上伽藍の根本大塔の前になります。

慈尊院から壇上伽藍まで町石道が続く理由は、かつて高野山へ参拝する際、慈尊院前を流れる紀ノ川まで船で来訪して、そこからは歩いて慈尊院を経て→大門→壇上伽藍という流れで歩いたからです。

高野山霊宝館には「高野山蓮華曼荼羅図」と呼ばれる絵図が所蔵されているのですが、この絵図によれば大師は以下のような構想を取り入れて高野山を開創したと考えられています。

  • 壇上伽藍から奥の院までが➡️金剛界(こんごうかい)
  • 慈尊院から壇上伽藍までが➡️胎蔵界(たいぞうかい)

「慈尊院」とは「じそんいん」と読み、高野山への登山口となる紀ノ川の川岸近くに建てられた寺院です。

「慈尊院」は大師・空海の母親である玉依御前(たまよりごぜん)が息子を想い、女人禁制の高野山において入山が許されなかったため、やむなく長年暮らした草庵(そうあん/=質素な住居)のことです。

やがて母ジャが亡くなった後、大師は弥勒仏と習合した母ジャの夢を見て、弥勒仏の別名である”慈尊”から名前を頂戴して、母ジャの菩提を弔うために「慈尊院」という寺院を母ジャが暮らした草庵を改装する形で建立することになるのです。

180で終わりではなかった‥‥

そして、実は180で終わりではないのです。・・なんと再び根本大塔を過ぎたあたりに「1町石」が立っているとすれば驚かれますでしょうか?

実はこの1町石は、ここから新たに奥の院の御廟(ごびょう)までの36ある町石のスタートを告げる石碑となるからです。

つまり、厳密には慈尊院から奥の院の御廟まで続いていることになりまする。距離はざっと23㎞。36町ごとに4本の「里石 (りいし)」が立ちまする。

里石とは、 大日如来法身の真言と里数が刻字されてい‥‥‥申す。ボハっ
しかしここでこんな疑問が脳裏によぎりませんか?

”180”や”36”は何かに紐づいた数字なのか?

実はこれら180や36の数字は、金剛界と胎蔵界に存在する仏の数を表現したものだと考えられています。

  • 金剛界▶️37尊(町石は36まで)
  • 胎蔵界▶︎180尊

高野山に長期間滞在予定の方は是非!慈尊院から大門を経て壇上伽藍へ入り、そこから一の橋を経て中の橋→灯籠堂(御廟)へと歩んでみてください。

町石は36で金剛界の仏は37で1尊足らない理由

  1. 奥の院の御廟を入れて37とする説がある。
  2. 高野山全体を1と考えてカウントして37とする説がある。

なお、これら考え方は高野山独自のものです。

金剛界側と胎蔵界側とで町石道の「一町」の長さが違う!

気づいた方は少ないと思いますが、実は金剛界すなわち、「根本大塔→奥の院まで」の町石の1町の間の距離は約80メートルとされています。

胎蔵界(「慈尊院→根本大塔までの約109メートル」)と比べると30メートルも距離が違うことになります。

この理由はお分かりになりますかぃ?

実は深い意味はなく、昔の信奉者が胎蔵界と金剛界を表現するために、わざと無理やり合わしたそうです。

町石がはじめて建てられたのはいつ?「町石の歴史(起源)」

高野山の石製の町石は鎌倉時代の文永(1264年から1275年まで)&弘安期(1278年から1288年まで)に建てられたとみられています。

しかしながら、現在、鎌倉時代に造立された町石は奥の院にしかありんせん。

「寛治二年・白河上皇高野御幸記」によれば1265年(寛治2年)3月、遍照光院の覚教上人が石製の町石建立を発願し、20余年の歳月を経て200余基の町石が弘安8年(1285年)に完了させてい‥‥‥申す。グギャ

覚教上人が発願したことを機とし、執権北条村政・時宗はじめ、有力御家人衆の1人・安達泰盛が呼応します。

安達泰盛は自らが勧進(かんじん/金を集める立場)をかって出て、高家や幕臣たちに声かけを行うなど金銭の寄進を願い出ています。

高野山市街地部分の町石はすべて江戸時代以降に再建されたもの

高野山内の市街地部分に鎌倉時代の町石が現存していない理由の1つに火事が考えられている。

高野山は落雷が原因による火事に見舞われる機会が非常に多く、火事を繰り返しながら、徐々に焼けただれて姿を留めることができなくなったとされる。

鎌倉時代に造立された町石は花崗岩でできており、花崗岩は火や熱に弱い難点がある。

町石は最初木製だった

現在の町石は石製ですが、大師が現役で伽藍に居られた頃の町石は木製の丸太でした。

つまりのところ厳密に言うと、町石の起源は大師が高野山を開創した際、ふもとの慈尊院へ行くための道標とすべく、地面にブッ刺した木製の卒塔婆が起源となりまする。

息子である大師を心配して遥々、四国から高野山へ旅してきた母ジャ‥‥。しかし、高野山は女人禁制のシキタリがある。

そこで九度山に粗末な草庵(現在の慈尊院)を建てて、ここに籠って祈りを捧げることになるのですが、そんな母ジャに会うために自らが建てた木製の卒塔婆を道しるべとしたのです。

大師は山上から慈尊院までの険しい道のりを月に9回も通ったと伝えらえてい‥‥‥申す。ギャホェ

木製の卒塔婆の長さは現在の町石とほぼ同じ、4から5メートルだったと考えられていますが、丸太の上部に五輪塔を彫り抜いていたようです。

木造から石製に置き換えられた理由

木製の塔婆は、風食というよりは腐朽化によって腐り果て、それゆえ鎌倉時代に石製に交換されたと考えられています。中には土に還って消失していた町石もあったハズです。

‥‥‥と考えると当初は町石ではなく、「町木」か?

鎌倉時代に交換された根拠としては、高野山内の金剛界の町石の1番目の町石に執権・北条政村の名前があったり、その他の町石にも有力な皇族の名前が見えることから、幕府の事業の1つとして計画的に石製に交換されたことを物語っています。

実際に幕府の執権が高野山に参詣した可能性も考えられまする。

町石は誰が建てた?

最初と終わりの方の番号の町石は、時の権力者が奉納した物が多い。

例を挙げるならば、後嵯峨上皇(太上天皇/譲位した上皇のこと)が「2、3、4、3、6」の町石。

執権・北条政村や有力御家人の安達泰盛など。

高野山の中でも千手院橋交差点を中心とした市街地の町石はすべて後世にて再建されたもの。ほぼ江戸時代以降に再建されたものである。

逆に奥の院の中の町石は古いものが多く、鎌倉時代のものも多い。

高野山の市街地に建てられている町石は岡山県の福田海という信仰団体の手により修復されているものが多い。

大正時代にもともとあった町石を復原する形で造立されている。


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町石の作り方

基本、1個の石を用いて1本の町石を造立している。

町石の下に宝物が埋められている??

古来、高野山の地元民の間では町石の下は宝物が埋められているという伝承がありまする。

ただ、これについては町石が再建されたときなどに調査されており、厳密には経文が刻まれた石コロ(経石)が出土したようです。経文なのでいわば写経を石に刻んだことになります〜る。

ただし、江戸時代の特徴を示す「一文字一石」ではなく、鎌倉時代の特徴を示す「経文が刻まれた大石」が発見されていまする。

使用された石は紀州産(紀ノ川産出)の緑泥片岩という緑色をした丸みを帯びた川原石。

ただ、西南院の前にある4つめの町石は平成に入ってから移動されており、この折、高野山大学主導による発掘調査が実施されたが、この時は地中から何も出てこなかったとのこと。

金剛界側の町石19番目の町石から得られた思わぬ発見

一の橋から奥の院へ向かうと途中、参道が2つになっているのが分かりまする。

大抵の方が左側(正面に延びている参道)の参道をそのまま進むのですが、鎌倉時代の参道はその右側の方の道でした。

この事実は19番目の町石が2つ見つかったことにより、明らかにされています。

19番目の町石が見つからなかった理由

鎌倉時代に造立された当初の19番目の石は五輪塔の笠の部分が消失しており、ただの破損した石塔だと見られていたからです。

これにより、鎌倉時代の参道の調査が行われ、江戸時代には、鎌倉時代の参道に「三昧聖(さんまいひじりという)」という、いわば「墓守」の建屋が50軒ほど軒を連ねていた実態が明らかにされており、新しい参道を敷設したことが判明していまする。

現在のところ、三昧聖のような墓守は鎌倉時代には存在していなかったと考えられており、これは奥の院に無数建つ墓石や卒塔婆、供養塔が江戸時代以降に盛んに建てられはじめたことに基づくものです。

三昧聖とは?

三昧聖とは僧侶なのだが、他所から高野山に来山して居処した僧侶だったため、僧位が低く見られていた。

このため高野山内で差別を受けていた。

しかしながら、赤貧ボンビーということはなく、中には裕福な者もいたようである。

なお、鎌倉時代には墓地を管理する者が居なかった‥‥というよりも、そう言った発想自体無かったと考えられている。

町石の形状はどれも一緒じゃない!特徴や制作時代の見分け方とは?

鎌倉時代の刻字は字が太く豪快かつ、達筆。

上部(五輪部分)の笠部分の形状や頭頂の擬宝珠の形状が鎌倉時代のものは平べったい。たとえるならボストロールがの突如反乱を起こし、どデカイ棍棒で会心の一撃をくらったメタルスライムの形状。….伝わった?

対して江戸時代の町石は笠部分の先がめくれ上がっている。また擬宝珠の形状として先が尖っている。

一般的に鎌倉時代の町石の方が出来栄えが良いとされる。

鎌倉時代は1つ1つ職人が魂を込めるように丁寧に作った。


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町石の1つ1つは五輪塔でもあり曼荼羅の仏でもある

実は現在の町石の上部を見れば薄っすらと横線が見えます。これがかつて木製であったことの名残と云われます。

この線より上が五輪塔である事を示している線であり、五輪塔の思想が流入した当初は五輪塔と町石との区別がなされてい‥‥‥申す。ゴギャっ

また、町石1つ1つは曼荼羅の仏の数だけ建てられていることから、曼荼羅をも示すものです。

これは町石道そのものが大師が創造した曼荼羅の世界そのものであることを意味し、町石道を進むということはある意味、修法の1つであるということです。

それゆえ町石道を進みゆく人々は1本、また1本と現れるたびに町石の前で手を合わせたとのことです。

五輪塔なので宇宙五原素を示している

町石の上部は五輪塔になっており、上から空・風・火・水・地の宇宙五原素を表してい‥‥‥申す。ゴハっ

正面に「空・風・火・水・地」の梵字を刻み、その下に町数、地輪の上部には「金剛界三十七尊」と「胎蔵界百八十尊」を表す梵字を薬研彫で大きく彫り込んでいます。

正面の左右にはそれぞれ施主(奉納者)などの名前や願文が刻み込まれてい‥‥‥申す。グホっ

高野山の町石の奉納者は女性がほとんど

あまり知られていないがなんとぉっ!8割が女性。

残りは皇族や鎌倉時代の執権などの財力や権力を有した有力者。

町石は女性最後の天皇とされる後桜町天皇(ごさくらまちてんのう)はじめ、比丘尼などの刻字が数多く散見される事から女性信者が多かった事を物語っている。

中には鎌倉時代に造立された町石が、風食により上部分が消失し、江戸時代の後補という町石もある。

女性の奉納者が多い理由は、大師信仰(入定信仰)やその利益が広く知られていたことが背景にあり、女人禁制ということで付加価値もあった。

そんなことからか、高野山は女性に非常に人気があり、こぞうように女性信者が町石を奉献した。

せめて御廟(大師)の近くに自らの願意を込めたものを奉納して利益にあやかりたかったのでしょう。

33番のみ「砂岩」!他はすべて「花崗岩」‥なぜ?

実は数ある町石の中でも唯一、材質が異なる町石がありまする。

この町石は高野山中興の祖とも云われる木喰応其(おうご)上人(天文5年/1536年〜 慶長13年10月1日/1608年11月8日)が砂岩で造立した33番目の町石です。

なぜ、砂岩にしたのか?なぜ33番のみを建立したのかの理由は不明とされているが、有力な説としては無くなって居たので再建したとされる。

もしくは、この33番の後方になんの因果か応其上人と関わり合いの深かった豊臣家と太閤秀吉の墓があることから、これが一因ともみられている。

町石の値段は安い?時代による値段の違い

町石は鎌倉時代より江戸時代の方が安かった?

卒塔婆に似た町石を職人が造立しているので、手がこんでいます。

江戸時代になると石を削る石工職人という職が確立し、技術や道具そして効率的な工程などがある程度、確立されたいたので、わりと短期間で大量生産できたわけです。

ところが鎌倉時代は石工がいても人口自体が少なく、はたまた技術や道具、効率的な工程など江戸時代と比べると乏しいものがあり、また、ほとんどワンマンプレー近い状態で制作にあたった。

江戸時代と比較した場合、その分、時間がかかることになるので、石工の仕事自体の価値が高く見積もられていた。

ただし、町石は1つの石から切り出して5メートルほどの棒状の五輪塔を造立しているが、これは江戸時代も鎌倉時代も作り方はまったく同じとされ、1個の大石から1つの町石を制作していたようです。

町石の金剛界側の1番目や2番目には有力者の名前が見える

町石の始まりである数字の1と2は権力者が建てたものを据えられることが多い。

高野山の町石は鎌倉時代の執権・北条政村などの名前が見える。

鎌倉時代に町石が建立される時、幕府の長が直々に高野山に参向した可能性が示唆される。

大塔は「0番」

大師が高野山を開創した頃にはすでに「0」という概念が存在した。

それゆえ大塔に0を据えるという構想があり、大塔がいかに尊い別次元の存在であるのかを内外に示した。

【補足】高野山の石塔は中身が空洞が多い

奥の院には、数え切れないほどの石塔があります。

実はこの石塔、ほとんどが中身が空洞だと聞けば驚かれますかぃ?

理由は単純明快で、あれだけの数の石を運ぶのが困難だったからです。

現代であればトラックを運転して国道を走行すれば山内へ来れます。また1度に大量の石コロころころドコいった‥‥を輸送できます。

往時はどうしていたかというと、運び人が1つ1つ担いで慈尊院から町石道を歩いて登ってきたのです。

‥‥途方もない労働です。

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