【石童丸と刈萱道心の説話で有名】高野山・苅萱堂(かるかやどう)|密厳院

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高野山・苅萱堂(密厳院)

高野山・苅萱堂(かるかやどう)

創建年

推定:1132年(長承元年/平安時代)

再建年

不明

建築様式(造り)

入母屋造
平入
正面唐破風付

屋根の造り

檜皮葺

ご本尊

地蔵菩薩

発願者

覚鑁上人(かくばん)

霊場・札所指定

東海近畿地蔵霊場第34番札所

高野山・苅萱堂の読み方

苅萱堂は「かるかやどう」と読みます。

高野山・苅萱堂の名前の由来

苅萱堂の「苅萱」とは、鎌倉時代に流行し以降、近世代まで受け継がれてきた「説経節(せっきょうぶし)」という曲目の1つです。

つまり、この苅萱から苅萱堂の名前が付されています。

名前が付された理由は、以下にて説明していきましょう!

高野山・苅萱堂の歴史

この刈萱堂は「高野山の宿坊・密厳院」に属します

したがって、刈萱堂は、密厳院の中のお堂(別院・子院)という位置づけとなります。

高野山・密厳院は、もともと、新義真言宗の開祖である「覚鑁(かくばん)」、後の「興教大師」と呼ばれる僧侶の「念仏堂(修行の場)」でした。

やがて、覚鑁の名前が有名になると、この念仏堂の噂を聞きつけた、「高野聖(こうやひじり)」と呼ばれる僧侶たちが、この「念仏堂」に集うようになります。

その後、日を追うように参集する僧侶は日増しに増加の一途を辿り、新たに「萱堂(かやんどう)」と呼ばれるお堂が建てられまする。

しクぁし!このお堂に参集しはじめた僧侶たちは派閥を作り始め、やがてこの派閥は「萱堂聖(かやんどう ひじり)」と呼ばれだします。

それから星霜経た鎌倉時代の半ばのこと、「臨済宗興国寺派」の「祖心地・覚心(法灯国師)」という僧侶がこの「萱堂聖」の中心的な僧侶(人物)になっていました。

この「覚心(かくしん)」には、自らを支える門下がおり、その門下たちと共に、高野山はもとより、周辺の国々へ赴き、「苅萱物語」を主とした連歌会などを開き、民衆に人気を博していきます。

「覚心」を中心とした「萱堂聖」は、このような活動を精力的に行っていたために、やがて「苅萱堂(かるかやどう)」と呼ばれだしました。

この由来が現在まで語り継がれ、現代に至っても「苅萱堂」と呼ばれているということです。




苅萱堂のこんなに涙が溢れて止まらない物語・「苅萱物語」

鮮やかな朱色が目をひきますが、苅萱堂には悲哀にみちたこんな物語があります。

下掲画像は写真撮影が禁止されているエリアにあります。写真はお借りしたもの。

加藤左衛門繁氏

これは、今から800年程前の平安時代末期の物語です。

九州・筑前の苅萱荘(かるかやそう)博多という場所に「加藤左衛門繁氏(かとうざえもんしげうじ)」という領主がいました。

あるとき隣国の大名「原田種正(はらだたねまさ)」が開いた「菊見の宴」に招かれます。しかし宴の最中、なんと!突如、1頭の馬が敷地内で暴れ出すのです。

参加者たちは腰を抜かし、我先にと逃げ果せるばかりですが、ただ1人、馬に飛び乗って手綱を抑え、馬を制止させた若武者がいました。

この若武者こそが加藤左衛門繁氏です。

この一件以降、繁氏はスッカリ原田種正に気に入られてしまい、主君となった原田種正の娘を嫁にもらいます。

それからしばらく経ったあるとき、父親の親友が他界し、その遺児が引き取り手に困っていたそうで、繁氏がこれも何かの縁ということでその遺児を引き取ります。

その遺児の名前は「千里(ちさと)」といい、繁氏は自らの愛妾(あいしょう)として取り立てることにするのです。

千里と妻の憎悪に満ちた確執

しかし、繁氏の妻と愛妾(愛人)の千里は同じ女として確執が起きるのは時間の問題でした。

妻と千里はお互いの怒りを罵声を浴びせ合うことはないにしても、内心お互いを呪うくらい憎んでいたそうです。

あるとき妻と千里が仲良く将棋を指している様子を偶然見た繁氏は腰を抜かしたそうです。

なんと!妻と千里の髪がたくさんの蛇に変化し、お互いを嚙み殺そうとしていたからです。

そんな妻と千里の確執に自らの運命の残酷さと儚さを知り、繁氏はついに家出をしてしまい、果てのない旅に出てしまいます。

苅萱道心の誕生

旅に出た繁氏が旅路の末にたどり着いたのが「高野山」でした。

繁氏は聖地・高野山の蓮華谷(れんげだに)という場所に萱葺き(かやぶき)屋根の草庵を結び「道心」と名前を改め、ここで出家してしまうのです。

出家後、修行の日々が続きましたが、いつしかそんな繁氏を見た者の間で「”苅りとった萱屋根”の草庵に暮らす道心」として、「苅萱道心」と呼ばれるようになっていきます。




石童丸の誕生

一方、愛妾の千里は繁氏が家を出たので自らは故郷である「播州(ばんしゅう)※兵庫県の左下一帯の地域」に帰っており、ここで繁氏の子を産むことになります。

そして自らの子に「石童丸」と名付けて育てることになります。

石童丸と千里の旅

やがて石童丸も立派な14歳の青年になった頃、母の千里は繁氏を探す旅に出ることになります。

あるとき旅路で繁氏の噂を耳にし、高野山へ向かったという話を聞きつけます。そして高野山を目指すのですが、・・ところが当時の高野山は女人禁制のために母は入山できませんでした。

しかたなく石童丸は、学文路(かむろ)の宿に母を残して1人で父を探しに行きましたが、そこで出会った僧に、父は死んだと聞かされてしまいます。

絶望して山を下りると、母も既に亡くなっていました。

身寄りのなくなった石童丸は、母の故郷である播州への帰路につくことを余儀なくされます。

しかしさらに不幸は続き、国に戻った時には石童丸の姉も亡くなっていました。

石童丸と父親の悲しい再会

完全に身寄りをなくしてしまった石童丸は苅萱道心のことを思い出し、傷ついた心で高野山での修行を決意します。

そして、父の死を知らせてくれた「苅萱道心」に弟子入りするのです。

「苅萱道心」は石童丸の父親でしたが、仏に捧げた身(出家)のため、名乗ることができませんでした。

ただ、やがて修行を続けるうちに石童丸も「苅萱道心」が父であると気づくのですが、生涯、「子の石童丸です!」とは言い出せなかったそうです。




父子で親子地蔵尊を造立する

石童丸は、信照坊道念と名乗って40数年間、「苅萱道心」のもとで修行したそうです。

修行の最中、世のため人のために祈願を込めて、父と子で2体の親子地蔵を造立します。

再び父親との別れ

しかし、再び父親との別れの時がきます。

父親は石童丸に自らの子として接している自分に気づき、その自分を戒めるために長野 善光寺へ旅立つのです。

そして善光寺で修行することになりますが、これが石童丸と永遠の別れ。83歳で入寂し、石童丸を残してこの世を去ります。

なお、道心と石童丸が造立した親子地蔵は父親(苅萱上人)が入寂した善光寺付近の「往生寺」に安置され、今も変わらず篤い崇敬が寄せられているとのことです。

苅萱堂の最大の見どころ「堂内にある額絵」

実は上記の苅萱物語でご紹介した額絵は苅萱堂内に飾られているものです。苅萱堂内には、このような悲しい物語の額絵が天井付近に掲げられています。

堂内を反時計回りで歩み進んで一周すると、30枚の額絵を通して物語が完結するようになっています。(堂内は写真撮影禁止。上記、写真はお借りしたもの。

もっとも身近な親子の縁について、その大切さと感謝してもしつくせない気持ちを思い起こさせてくれる物語です。

歌舞伎の演目にもなった苅萱物語

この苅萱物語は江戸時代になると、歌舞伎(浄瑠璃)の演目として演じられ、一層、世に名前が広まります。

演目名は「苅萱道心筑紫いえづと」といい、1735年(享保20年)に大坂豊竹座(とよたけざ)にて初公演されています。

苅萱堂のご利益

以上のことから苅萱堂には人間関係向上や出世などのご利益があるとされ、現在でもご利益を求めて日本各地から苅萱堂にたくさんの参詣者が訪れています。

「高野山・苅萱堂」の御朱印

この「高野山・苅萱堂」では、御朱印をいただくことができます。

高野山・苅萱堂(かるかやどう)の御朱印

高野山・苅萱堂の御朱印の値段:300円

高野山・苅萱堂(密厳院)のお問い合わせ先

住所:和歌山県高野町高野山478

電話番号:0736-56-2202(密厳院)

 高野山・苅萱堂(かるかやどう)の場所とアクセス(行き方)

  • 高野山駅から南海バス(奥の院行きへ乗車)で15分。
    「苅萱堂前バス停」下車スグ。
  • 金剛峯寺から徒歩約10分

※高野山・奥の院の入口の「一の橋」より少し西にあります。

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