高野山・宿坊 金剛三昧院【重要文化財】【世界遺産】
高野山・金剛三昧院の読み方
金剛三昧院(こんごうさんまいいん)
金剛三昧院の歴史・由来
高野山・金剛三昧院は高野山内の寺院において単独で世界遺産に登録されている寺院になる。
金剛三昧院が建立された経緯
金剛三昧院は1211年(建暦元年)鎌倉時代の尼将軍とも呼ばれた北条政子が、夫である源頼朝卿の菩提を弔うために建立した寺院となる。
当初は「禅定院(ぜんじょういん)」と呼ばれていたが、頼朝卿の次男坊である三代将軍・実朝が建保7年1月27日(1219年2月13日)に死没する(暗殺)と、実朝の母である北条政子が実朝の菩提を弔うために1223年(貞応2年)に幕府の普請にて禅定院を拡張した上で以下のような堂塔の造営を発願する。
- 大日堂
- 観音堂
- 東西二基の多宝塔
- 護摩堂二宇
- 経蔵
- 僧堂など
これら堂塔の造営に際しては、北条政子が臨済宗の高僧である栄西(ようさい)に請いて発願し、建築は栄西の一番弟子にあたる退耕行勇(たいこう ぎょうゆう)が指揮を採り、造営奉行には願性(葛山景倫/かずらやま かげとも)ならびに安達景盛が補任された。
落慶後、「金剛三昧院」へと寺号が改称される。
当院の初代住職としては、造営に携わった退耕行勇がそのまま入寺した背景もあり、高野山の管理者的存在でもあった金剛峯寺の所管から一部離れ、禅宗(臨済宗)・律宗・密(密教/=真言宗)・の三宗兼学の寺院としての歩みを見せ始めることになる。
寺伝よると浄土宗にも所属したとされ、四宗兼学の学問寺院として発展した。
西方寺へ禅宗一派が移管される
1227年(安貞元年)に西方寺を創建した願性(葛山景倫)は、金剛三昧院にて行勇に師事していた心地覚心(法燈国師)を1258年(正嘉二年)に西方寺に迎え入れる。
その折、禅宗の宗派のみが西方寺に移され、金剛三昧院は真言宗系の寺院に属することになる。
また、泉涌寺や東大寺で学んだ実融(じつゆう)が入寺してから再興されたが、再興後は律宗も兼学するようになった。
金剛三昧院は北条政子を供養するための寺院でもあった
1238年(嘉禎四年)の北条政子の十三回忌にあたり、足利義氏が発願して当院に大仏殿(大日堂)を造営し、その内部に丈六(1丈6尺)の大日如来像を奉安し、鎌倉幕府三代将軍・実朝と政子の遺骨を納めたと伝わる。
ちなみにこの時、義氏は料所として美作国(現・岡山県)の大原保を寄進したと云われる。
これにより初代将軍・頼朝卿、その次男坊の三代目組長‥‥ではなく、将軍!!実朝に加え、頼朝卿の嫁っ子にあたる政子を合わせた親子ゆかりの寺院となった。ふぅ
金剛三昧院の経営者「貞暁上人」
金剛三昧院の経営は一心院谷(高野山内)の貞暁上人(じょうぎょう/鎌倉法印)が行ったが、この頃の金剛三昧院は一心院および寂静院(五坊寂静院/ごぼうじゃくじょういん))とともに一大宗教勢力となっていた。
また、高野山の事実上の監視を目的とする寺院でもあった。
ところで‥‥「一心院」とは?
一心院とは、現在の女人堂付近に立つ「金輪塔」の周辺一帯が、かつて「一心院谷」と呼ばれた場所であり、谷名の由来はまさにぅぃ!一心院という寺院が建っていたからに他ならぬぅぁい。
一心院とは明寂上人が「妙法蓮華経」を由来として(「妙・法・蓮・華・経」の頭文字を取り)、妙智坊・法智坊・蓮智坊・華智坊・経智坊という宿坊寺院を建立し、これらをまとめて一心院と号したとされる。
この後、金剛三昧院が金剛峯寺所管の寺院となるのは、江戸時代初期頃とみられてい‥‥‥申す。あっ
6代目長老「心地覚心」
6代目長老「心地覚心」に就任した心地覚心は信濃国は松本出身の人物であり、当初は戸隠山にて宗学を修し、金剛三昧院に入寺してからは退耕行勇に師事し、師の命で一時期、寿福寺(鎌倉)の経営を担った。
同氏はさらに道元、栄朝、円爾にも参じたと伝わる。
心地覚心は1249年(建長元年)に入宋し、同六年に帰朝を果たすと、即座に金剛三昧院の住僧となった。
北条時宗の厚遇により金剛三昧院は高野山内で孤立する
北条時宗は勧学院の他、修学院を金剛三昧院境内に造営するなど、金剛三昧院を厚遇したことから、やがて高野山内において隠然たる勢力を誇るようになり、やがて高野山僧たちとの寺格を巡るなどの確執が生じることになる。
このように歴代執権が金剛三昧院を厚遇した理由は、頼朝卿や政子の意志を汲んでそれを踏襲するためでもあろぅが、第一に鎌倉時代前期に鎌倉と高野山とを結ぶ、窓口的な立場をになっていた寺院であることが大きい。
以上のような変遷を経て金剛三昧院第10世 良俊(りょうしゅん)長老は金剛峯寺の衆僧たちの逆鱗に触れて退出下山を申し渡されるなど、その”確執”は、まるでオッサンorオバハンになって”角質”が減少するかの如くに”確執”がさらに深まった。3連芸術的トゥループ完成 ヒュ〜💋
木版印刷事業
金剛三昧院では1277年頃より修学振興の一環から高野山衆僧たちの協力を仰ぎ、木版印刷事業が始められ、教学のテキスト本が刷られた。
刷られ始めた頃の奉行であった鎌倉幕府宿老の安達泰盛の与力に加え、木版版下制作に金剛峯寺僧の信芸(しんげい)や、能海(のうかい)、快賢(かいけん)たちも参画した事から、金剛峯寺との関係も良好となった。
1280年(弘安三年)には勧学院が創設される!
1280年(弘安三年)になると、8代執権「北条時宗」によって勧学院が創設される。
しかしながら、この勧学院は1318年(文保二年)に後宇多法皇が院宣を発し、勧学院のみが現在地(壇上伽藍の蓮池隣地)へ移築されることになった。
勧学院についての詳細は以下ページを要チェックや!by.彦一
1318年(文保二年)に現在地に移建される
覚園寺(鎌倉の古刹)の寺僧・道戒上人の上申によって、1318年(文保二年)に後宇多法皇が院宣を発し、勧学院のみが現在地(壇上伽藍の蓮池隣地)へ移築されることになる。
また、後宇多法皇はその際の移築費用を賄うために、修理の料所として岳牟田荘(肥後国)を寄進し、自らの勅願寺にも定めた。
2021年にはクラウドファンディングも実施!
2021年には経蔵の修復資金として1000万円のクラウドファンディングを実施。結果的に集まった資金は2258万円にものぼり、その資金で経蔵の修復を行ってい申す。アヒャっ
高野山・金剛三昧院の文化財がキレイな姿で現存している理由
有史上、過去を振り返ると高野山は度重なる火難に見舞われているが、金剛三昧院は高野山の中でも南部に位置するためか、類焼の難から逃れることができたため、創建当時よりの貴重な堂塔、仏像、絵画などが現存する。
このため境内には国指定重要文化財が多数、所蔵される。
高野山・金剛三昧院への交通アクセス
南海りんかんバス
[高野山駅前-千住院橋(11分/290円)]+徒歩10分
金剛三昧院の駐車場
- 収容可能台数:車50台・バス10台
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金剛三昧院の場所(地図)
高野山・金剛三昧院は高野山の最南端に位置する宿坊となる。
高野山・金剛三昧院のINFO
- 住所:和歌山県高野町高野山425番地
- URL:http://www.kongosanmaiin.or.jp
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