高野山 壇上伽藍「大会堂」

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高野山 壇上伽藍「大会堂」

創建年

1175年(安元元年/平安時代)

再建年

1843年(天保14年/江戸時代後期)

建築様式(造り)

入母屋造り
正面向拝(階隠し)付き

大きさ

高さ:約-m
横幅:約-m
奥行:約-m

屋根の造り

檜皮葺

発願者

五辻斎院

高野山 壇上伽藍「大会堂」の読み方

「大会堂」は「だいえどう」と呼称します。

「大会堂」の名前の由来

「大会堂」の名前の由来は、壇上伽藍にて大法会が催される時に大人数を収容できるための集会所として「大会堂」と呼称されています。




高野山 壇上伽藍「大会堂」の歴史・由来

この「大会堂」は、1175年(安元元年)に、鳥羽法皇の皇女(娘)「五辻斎院(いつつじのさいいん/=頌子内親王)」の発願で、父親である鳥羽天皇をお祀りするために造営されたお堂です。

この大会堂は、創建年当初は現在の苅萱堂のあたりにかつて存在した「高野山・東別所」に建っていました。

しかし西行法師という僧侶が長日不断の談義所(学堂)として東別所から、この壇上伽藍へ移すことを五辻斎院へ提案した所、この案が受け入れられ1177年(治承元年)に現在地へ移築したと伝えられています。

なお、1177年には東別所から新たに現在の宿坊寺院である「蓮華定院(れんげじょういん)」が現在の場所に移設されています。その折、西行法師が勧進となって造営資金調達に奔走したと伝わります。

ただ、残念なことに現在、見ることのできる大会堂の姿は、1848年(嘉永元年/江戸時代後期)に再建された時の姿になります。

高野山 壇上伽藍「大会堂」の役割

壇上伽藍・「大会堂(だいえどう)」 (2)

当初から大会堂と呼称されていた訳ではなく、上述した「蓮華定院」を含め、利用され続けている内にやがて「大会堂」と呼称されるようになったようです。一説には「蓮華定院・会堂」とも呼ばれていたとか。

その他、異なる勢力同士の交渉の場としても利用されてきたようです。

江戸時代には上述の大法会の際、「衣装合わせ」や「従者の行列の進み方」などの打ち合わせを行ったと云われております。

現在でも伽藍の大法会のとき、衣装を正して定刻を待つ待機場所として利用されています。

高野山 壇上伽藍「大会堂」のご本尊

大会堂の本尊は「阿弥陀如来(あみだにょらい)」です。

他にも、阿弥陀如来と併せて「阿弥陀三尊」といわれ阿弥陀如来の脇侍でもある「勢至菩薩(せいしぼさつ)」「観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)」がお祀りされています。

菩薩の中には単独で祭祀される菩薩様もいますが、勢至菩薩は阿弥陀如来の脇侍として必ず脇に配されます。

勢至菩薩は智慧を司る仏様で、智慧を用いて生きとし生ける物を救済します。

観世音菩薩とは一般的には「観音様」で知られています。正式には「観音菩薩」と呼称します。

観音菩薩は一般的に「現世利益」と呼ばれる「厄災や煩悩」を祓ってくれるありがたい菩薩様です。

高野山 壇上伽藍「大会堂」の場所(地図)

高野山 壇上伽藍「大会堂」は蛇腹道から壇上伽藍へ入り、左脇、三昧堂と愛染堂の間に位置します。

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