高野山 壇上伽藍「金堂(こんどう)」

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高野山 壇上伽藍「金堂(こんどう)」

壇上伽藍・「金堂(こんどう)」

創建年

不明
推定:819年(弘仁10年)以前※平安時代前期

再建年

838年(承和5年)以前※平安時代前期
1591年(天正19年)

1932年(昭和7年)※他、過去に6回あり(7度目の再建)

建築様式(造り)

入母屋造
前面向拝(階隠し)付き

※鉄骨鉄筋コンクリート造

大きさ

高さ:23.73m
横幅:23.8m
奥行:約30m

発願者

弘法大師・空海

法要

結縁灌頂:春季(5月初旬)、秋季(10月初旬)

高野山・金堂の読み方

金堂は「こんどう」と読みます。

金堂は別名で「講堂」とも呼ばれる

高野山・金堂は修行の際に、僧侶が一同に集まる「総本堂(講堂)」ともいわれ、大塔(根本大塔)と同じく高野山の中心の一角を担ってきました。(弘法大師空海が創建した頃は金堂ではなく「講堂」と呼ばれていた)」

講堂とは、山内の皆が参集する場所のことであり、それを真っ先に造営していることからも拝察できるように、空海という人物が社交的な面を備えた品格を有する人物であったことが垣間見える一面です。




高野山・金堂の歴史・由来

壇上伽藍の中門をくぐると、一際大きな建物があります。

これが「高野山・金堂」です。

838年(承和5年)に嵯峨天皇(さがてんのう)の御願堂に指定され、このときに御本尊「薬師如来像」および「脇侍(きょうじ)」が創祀されたと伝えられています。

高野山金堂は高野山の開創時代から存在すると云われる、高野山内で最古の歴史を持つ建造物です。

根本大塔よりも先に造営されたと云われ、金堂の落慶後まもなく根本大塔が完成しています。

大師はまず、金堂(講堂)の造営を行ってから、高野山内における諸事・計画などをすべて金堂で行なっていたとされ、根本大塔の造営に際してもこの金堂で指揮をとっていたと云われます。

現在に至っても高野山内における重要な行事はこの金堂にて執り行われています。

金堂は過去、幾度もの火災に見舞われた

この金堂も創建以降、幾多の災難に見舞われており、記録されているだけで6回は焼失しています。

そのうちの1回とされるのが、1591年(天正19年)、高野山中興の祖として知られる「木食応其(もくじきおうご)上人」の発意にて焼失後に再建工事が実施されています。

現在見ることのできる金堂の姿は、幾度の火災に際し、その度に再建されてきた8代目の金堂となり、1934年(昭和9年)に武田五一の設計により再建されたものです。(現在の金堂

意外にも驚くことは1926年(昭和元年)にも1度、焼失しており、なんと!悲運にもこの時の焼失によって内部に安置されていた秘仏の仏像7体が、跡形もなく焼亡しています。

なお、この時の金堂は1927年に再建されており、設計したのが天沼俊一博士です。

高野山・金堂の建築様式(造り)

現在見ることのできる金堂の姿は残念ながら、創建当初の容姿と留めておらず入母屋造り・鉄筋コンクリート造の堂舎になります。

一説では、創建当初の金堂は檜皮葺(ひわだぶき/ヒノキ材)で彩色や飾りのない、きわめて質素で簡素な建造物であったも云われます。

江戸時代の金堂は2階建てだった?

江戸時代の金堂は現在の金堂よりも規模が大きく、2重(2階建て、もしくは法隆寺金堂のように裳階屋根)だったことが明らかにされています。

その金堂も焼失し、その後再建された金堂は往時の姿形を踏襲せず、現在見られるような一重で再建されることになっています。

高野山・金堂のご本尊

上述したようにそれまでの金堂のご本尊は焼失してしまっていますが、現在の金堂には新たにご本尊が安置されています。

そのご本尊と言うのが、2015年(平成27年)の高野山・開創1200年に際して、初めての御開帳となった「薬師如来像(やくしにょらいぞう)」です。

この薬師如来像は明治時代初頭、天才と謳われた彫刻家・高村光雲の造立によるものです。

光雲は、この薬師如来像を彫るに際して自らの魂の一部を封じ込めたともいわれており、その見栄えは他に類をみない、類まれな如来像になります。

なお、この高村光雲作の薬師如来像は秘仏となっており、御開帳の時以外、見ることは叶いません。

現在は、脇侍に挟まれる形で中央の厨子(ずし)にシッカリと収められ、大切に安置されています。

またこの薬師如来の両脇には脇侍として、上述の復元された6躯の仏像が安置されています。

高野山・金堂の復元された仏像(6体)・一覧

向かい見て左脇

金剛王菩薩坐像、、降三世明王立像、、虚空蔵菩薩坐像

向かい見て右脇

普賢延命菩薩坐像、不動明王坐像、金剛薩埵坐像

「金剛王」と「金剛薩埵」は、あまり聞きなれない仏になりますが、四親近菩薩(ししんごんぼさつ)の中の2菩薩です。

四親近菩薩とは、各方角を守護する如来の下に属し、十六菩薩の代表となる4仏のことです。

金剛王、金剛薩埵ともに大日如来の東側を守護する「阿閦如来(あしゅくにょらい)」に属する2菩薩でもあります。

焼失した仏像の正体とは?

堂内に安置されていた6躯(体)の脇侍(きょうじ)に関しては奇跡的に写真が残されていたので、その写真をもとにして忠実に復原される形で再造されています。

ただし、上記の6体は御本尊の脇侍であり、つまり、この他にも御本尊が1躯(1体)存在していたことになります。

金堂に伝わる記録では御本尊は絶対秘仏とされており、秘仏であるが故、ほとんど尊容を拝んだ者がいないことから、写真すら残されていなかったようです。

つまり、写真をもとにした復原は不可能とされましたが、少しだけ見た者などの話を聞いてなんとか復原の糸口を模索しますが、不思議なことに誰も尊容を思い出せなかったそうです。

ただ1つだけハッキリとした事実としては、そのお姿は「坐像」であったようです。

なお、この燃えてしまった金堂のご本尊は、一説では平安初頭に造立された「阿閦如来(あしゅくにょらい)」とも考えられているようです。

困難を極めた仏像の復原

上述、御本尊以外の6体の脇侍については、完存していた写真をもとに復原・再造されましたが、像高や細部のサイズなどは写真だけでは分かりません。

そこで役に立ったのが、1888年(明治21年)に行われた高野山内の調査記録を集録した「高野山金剛峯寺什器帳」の記述です。

高野山金剛峯寺什器帳には、高野山内で保存されている仏像すべての台座からの像高が記載されており、この内容をもとに細かな部分のサイズが割り出され、ほぼ忠実な復原が可能となっています。




その他の高野山・金堂の見どころ

耐震耐火を考慮した鉄骨鉄筋コンクリート造り

現在の金堂は、関西の近代建築の父とまで称された「武田五一博士」によって、耐震耐火を考慮した設計で鉄骨鉄筋コンクリート構造で建立されています。

木村武山作の仏画

この金堂には「秘仏」以外にも、日本画家の「木村武山(きむら ぶざん)」が描いた以下のような仏画が安置されています。

  • 「釈迦成道驚覚開示図(しゃかじょうどうきょうがくかいじ)」
  • 「八供養菩薩像(はっくようぼさつぞう)」

木村武山とは大正の日本画の巨匠「岡倉天心(おかくらてんしん)」の弟子になり、天心同様にその後の日本画の発展に大きく寄与した人物です。

「八供養菩薩」とは?

八供養菩薩の「八供養」とは「大日如来が金剛界四仏を供養するために現れた4菩薩」と、逆に「金剛界4仏が大日如来を供養するために現れた4仏のこと」です。

大日如来→金剛界四仏
  • 金剛嬉菩薩
  • 金剛鬘菩薩
  • 金剛歌菩薩
  • 金剛舞菩薩
金剛界四仏→大日如来
  • 金剛香菩薩
  • 金剛華菩薩
  • 金剛燈菩薩
  • 金剛塗菩薩

この他、右端の壁には「胎蔵界曼荼羅」、左端の壁には「金剛界曼荼羅」が掛けられています。

本尊の阿閦如来(薬師如来、秘仏)

本尊の阿閦如来は「高村光雲」仏師によって造立されたものです。

高村光雲は、洋彫刻の特徴でもある写実主義と、江戸時代までの木彫技術とを融合させ、画期的な新時代の木彫の意匠を世にもたらしています。

両界曼荼羅

金堂の内陣を取り囲むようにして飾られているのが、平清盛公が高野山へ奉納したと伝わる「両界曼荼羅(通称:血曼荼羅)」です。ただし、金堂に飾られているものは複製であり、オリジナルは霊宝館内部に安置されています。

清盛は落雷が原因で焼失に至った根本大塔の再建に際し、現場総指揮を務め、1156年(保元元年)の大塔落慶記念に金堂に奉納しています。

なお、清盛公が奉納した曼荼羅が別称で血曼荼羅と呼ばれる理由は自らの頭を掻き切り、胎蔵界の大日如来の宝冠部分に自らの血を塗ったという言い伝えがあるからです。

ちょっとこんな所にも注目!金堂の「こんな参拝の仕方」

時計まわりに参拝する!

前述したように、この壇上伽藍は大師の思想により、両界曼荼羅に位置付けられることから、伽藍内を右回りで参拝するのが良いとされています。(曼荼羅は東南西北となっている。インドの方角を基軸として描かれている)

具体的には、右肩を金堂内部に安置される御本尊へ向けて、そこから時計回りに回るのが良いとされています。

つまり、この金堂から右回りという解釈です。

これは僧侶が袈裟から右肩を出していることに由来したものでもあり、仏教の右繞(うにょう)の礼法に則ったものでしょう。

多宝塔の内部に複数の諸尊仏が配されている場合、同様に右回りで参拝するのが正式といえば正式でしょう。

(金剛峯寺においての参拝も時計回りが正式とされる)

塗香を付ける

この金堂や、同じ壇上伽藍の根本大塔の入口には「摩訶不思議な”粉”」が設置されています。

この摩訶不思議な粉の正体は「塗香(ずこう)」と呼ばれるもので、僧侶の方が付ける”体臭消し”、いわゆる”粉の香水”になります。

この粉の成分は「香木(こうぼく)の粉」となり、香木の良い香りがツンっ鼻をつきます。

ちなみにこのような”体臭消し”は、お釈迦様が弟子に伝えたとされる「作法」とされ、以降、現代にまで踏襲され続けています。

よって、僧侶の最低限のマナーの1つとして挙げられるほど重要な作法となります。

その塗香が置かれていますので、ここで少し塗香の使用方法をご紹介しておきます。

塗香の使用方法

  1. まず、塗香を利き腕の指先でツマミとります。人差し指と親指で挟む感じで結構です。
  2. ツマミとった塗香を逆の腕の手の平の上に乗せます。
  3. すべて乗せ終わったら、両手の手の平で挟み込みます。
  4. 挟み込んだらスリ込みます。あスリスリスリ..スリスリスリ・・
  5. 手首や首、顔、足など着用している衣服から露出した肌の部分に塗り込みます。
  6. 最後に香りを嗅いで深く深呼吸して、気持ちを整えてから入堂します。

塗香は体臭消しの役割りだけではなく、心身を清めて邪気を祓い、邪気を寄せ付けない役目があると云われています。

ちなみに現在では、塗香はファッションアイテムとしても広く採用され、幅広い年代から指示を受けるまでになっています。




高野山・金堂の拝観料金・営業時間(拝観可能時間)

この高野山・金堂は、同じ壇上伽藍に位置する根本大塔と同様に入場料が別途必要になります。

こちらのページでご紹介する料金などは変更になっている場合がありますので、最新情報は公式ホームページなどでご確認ください。
金堂の入場料(拝観料)
  • 500円
金堂の入場時間(拝観できる時間)
  • 8時30分から17時まで(最終入場は16時45分)
定休日
  • なし(年中無休)

高野山・金堂の場所(地図)

高野山・金堂は中門から壇上伽藍へ入った場合は正面に位置します。蛇腹道から壇上伽藍へ入った場合は正面に見える根本大塔の前の建物が金堂になります。

壇上伽藍の見どころ一覧

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