まず目がいかない!高野山・金剛峯寺境内の見どころ

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高野山金剛峯寺は高野山真言宗の総本山であり、高野山真言宗3600余寺、信徒1000万の頂点に君臨する寺院です。

現在の金剛峯寺には以下でご紹介するような堂舎や部屋、庭などの見どころがあります。

以下ではまず、目がいかない!金剛峯寺の見どころをあわせてご紹介しています。

金剛峯寺境内案内地図

画像引用先:金剛峯寺

かご塀【和歌山県指定文化財】

  • 造営年:1862年(文久2年/江戸時代)
  • 長さ:総長約20.2メートル
  • 和歌山県指定文化財指定年月日:1965年(昭和40年)4月14日

現在の金剛峯寺の前身となる学侶方の総本山である青厳寺の寺域と区切るために設けられた築地塀であり、総長約20.2メートルの檜皮葺のかご塀です。南面部分の塀は、風飾状態から一時代古いものとされ、1862年(文久2年/江戸時代)の造営と伝わります。現在、和歌山県指定文化財の指定を受けています。




昭和天皇お手植えの「高野槙」

1977年(昭和52年)4月18日、昭和天皇・皇后両陛下が行幸された折、啓記念植樹となる高野槙です。悠仁親王殿下のお印になっています。

金剛峯寺・経蔵【和歌山県指定文化財】

  • 大きさ:奥行き6.26メートル
  • 横幅:4.30メートル
  • 建築様式(造り):塗籠造り

総本山金剛峯寺の前身である「青厳寺」時代の経蔵です。創建年は不明とされていますが、再建は1679年(延宝7年/江戸時代初期)と伝わります。

経蔵部分は塗籠造りが用いられ、正面には唐破風が据えられた3間4面の入母屋造りの覆屋(おおいや)がもうけられた経蔵となります。屋根は檜皮葺きで葺かれています。

天水桶(烏飛び)

金剛峯寺の屋根上を見れば分かりますが、「桶(おけ)」が置かれています。この桶は「天水桶(てんすいおけ)」と呼称し、かつて金剛峯寺が焼失した際、桶に貯まった天水が類焼を防いだという事実にならい、現在に至っても写真で見られるように「桶」が置かれています。

この天水桶が「烏飛び」と呼ばれる理由は、屋根の棟の上に天水桶やと火をたたく藁箒(わらぼうき)、それに後述のハシゴなど、昔の火事を防ぐ機能を備えた設備を「烏飛び」と呼称するようです。

ハシゴ

なぜかハシゴが正面唐破風を向かい見て左脇に置かれています。金剛峯寺の四季の写真を見たところ、いつの季節でもこのハシゴが置かれていることから、これはもはや「金剛峯寺」を構成する要素の1つだと位置付けることができます。

ちなみにハシゴについての由緒は不明です。おそらくそこらに転がっているハシゴをパクってきて置きやすい場所に置いたのでしょう。それがたまたま唐破風の左脇だったというわけです・・というのは嘘ですが。オホ

なお、この場合の”オホ”とは、「不明だよ」という意味合いが込められています。どっちでもエエ

金剛峯寺・鐘楼【和歌山県指定文化財】

造営年

不明

再建年

1864年(元治元年/江戸時代)

建築様式(造り)

入母屋造、袴腰付

屋根の造り

檜皮葺

重要文化財指定年月日

1965年(昭和40年)4月14日

金剛峯寺の前身となる青厳寺(せいがんじ)の鐘楼(しゅろう)になります。袴腰とは「はかまごし」と読み、これは腰組から下部分がスカートもしくは袴(はかま)の形状をしていることから呼称の由来がきています。




神輿

高野山における重要な法要のときは神輿が繰り出されます。

この神輿も大法要のときは繰り出されますが、神輿は主に奥の院へ行く時に使用されます。高野山の街々を巡幸する際は、道が平坦ということもありカゴ(駕籠)が用いられています。

上壇の間(じょうだんのま)

上壇の間(じょうだんのま)

天皇が高野山に入られた際に謁見(えっけん)や応接に使用された場所です。現在は高野山の重要な儀式に使用されています。

上壇の間は「上々壇の間」と「装束(しょうぞく)」の間から構成されており、壁は純金の金箔押し、上々壇の折上式格天井(おりあげしきごうてんじょう)にはすべて花の彫刻が施され、全体的に書院造りの意匠がうかがえます。壇上には弘法大師の御影像が安置されています。

上々壇の天井には花の彫刻が施され⬆️花の彫刻が施された折上げ式の格天井

⬆️武者隠し。まるで城の殿っ!な造り。

「上々壇の間」の右側に見える襖は警護者が隠れる「武者隠し」になっており、隣の「稚児(ちご)の間」とつながっています。武者隠しとは、城などで殿っ!を警護するために家臣が帯刀して待機していた場所です。なんだか城の造りに似ています。

奥書院

奥書院

ここは皇族が来られた時の休憩所として使われていました。上壇の間とともに高野山内における最高の部屋とも言われ、現在は儀式の時に使われます。

ふすま絵は「雪舟4代目」を名乗った「雲谷 等益(うんこく とうえき)」とその息子「等爾(とうじ)」の筆です。どこか儚げで独特な風情を味わうことができます。

奥には囲炉裏が設置され、冬は薪を焚いて暖がとられます。

大広間

大広間

ここでは、2月の常楽会(じょうらくえ)等の高野山内における重要な儀式や法会が行われる場所です。したがって現役で使用されている部屋です。

周囲の襖絵は「群鶴図(ぐんかくず)」と呼称し、安土桃山時代の4大襖絵職人の1人と言われた「斎藤等室(さいとうとうしつ)」による意匠作品です。

奥には仏間にあたる「持仏間(じぶつま)」があり、御本尊の弘法大師が祀られています。

その両側には「太閤秀吉」や「歴代天皇の位牌(いはい)」、「歴代・座主の位牌」がお祀りされています。

梅の間

梅の間

大広間の隣にある部屋で襖絵(ふすまえ)は、狩野派の巨匠「狩野探幽(かのうたんゆう)」作の「梅月流水(ばいげつりゅうすい)」という絵が描かれています。




柳の間

柳の間

1595年、太閤秀吉から高野山へ追放された関白・豊臣秀次は、この部屋で自害しました。ただし、現在の金剛峯寺は当初の建物はではなく再健されたものになります。

秀次公は小姓であった山本主殿、山田三十郎、不破万作などを連れ添い、1595年7月10日に当時の金剛峯寺、いわゆる青厳寺へ入ります。

翌日、高野山の大門などを再建した高僧「応其上人(おうごしょうにん)」に従い、剃髪し名前を「道意禅門」と名乗ります。

7月14日、池田伊予守景雄、福島正則、福原長堯は関白秀次討伐のために兵を率いて青厳寺を包囲。これを知った応其上人は数人の僧侶を率いて秀次の命乞いのために3人の説得にあたりますが、焼け石に水。太閤秀吉の意志の強さを身に沁みて知った応其上人はあきらめて関白秀次に自刃をすすめます。

7月15日、関白秀次と以下、山本主殿、山田三十郎、不破万作なども切腹。関白秀次に連れ添った3人はいずれも若干18歳の若武者だったとのこと。遺骸は高野山宿坊寺院「光臺院(こうだいいん)」に引き取られて埋葬されています。

関白秀次・辞世の句:『磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦』。

(意味:突如、思いもよらぬ大嵐に遭ってしまった。しかし磯辺で群がっている千鳥たちの澄んだ鳴き声を聞くと、不思議なほど心が安らかだ。もはや死への恐怖などない。)

襖絵は「柳の木」の四季の様子が描かれています。作者は日光東照宮の陽明門や想像の像などを手がけて名を馳せた、狩野派きっての秀才「狩野探幽(かのうたんゆう)」の手によるものです。

別殿

1934年(昭和9年)弘法大師御入定(ごにゅうじょう)1100年御遠忌大法会の記念して造営された大広間であり、昭和58年までは信徒の休憩所として使用されていた歴史をもちます。

間取りとしては南北に渡って長い広間があり、東西に各4室の部屋があります。西側の間には庭園が広がっており、かつては宗団・本山の主要会議の際にも使用されていました。

東側の4室には白描(はくびょう/=白黒画)で大師・空海の伝記が金彩(はくびょうきんさい)が用いられて描かれています。

西側の4室には極彩色で花鳥が描かれており、これら東西すべての襖絵の作者は、日本画家であり「法隆寺金堂壁画」や「高松塚古墳壁画」の模写でも知られる「守屋多々志(もりやただし)」です。

新別殿(しんべつでん)

新別殿(しんべつでん)

1984年(昭和59年)に行われた「弘法大師御入定1150年御遠忌(ごおんき)大会」の時に、参詣者の接待所として新設したもので、169畳の大広間になります。

現在は休憩所としてお茶を頂くことができます。僧侶の方から法話を聞ける会が実施されることがあります。

奥殿

この建物は一般非公開です。新別殿・別殿と同様に1984年(昭和59年)に行われた「弘法大師御入定1150年御遠忌(ごおんき)」の記念事業の一環として造営されています。

この奥殿の場所にはかつては覚鑁上人が造営した「大法院」が建ち、大法院がふもとの根来寺へ移設された後は太閤秀吉の発願により、応其上人が創建した「興山寺(こうざんじ)」が建てられました。

興山寺が金剛峯寺と合併した後は、しばらく「興山寺跡地」として存在していましたが、1886年(明治19年)に古義真言宗尋常中学林のちの高野山大学および中学校)が建てられ、古義真言宗尋常中学林が解体されて後、現在の場所に移設され、1984年(昭和59年)にこの奥殿が建てられることになります。

奥殿の襖絵は明治の花鳥画の巨匠「石崎 光瑤(いしざき こうよう)」が担当しますが、石崎氏が襖絵の製作中に他界されたため、何も描かれていない未完成のままの襖が数枚残されています。

現在に至っては、石崎光瑤の最後の作品として、はたまた未完成の作品として有名になっています。

囲炉裏(いろり)の間(土室)

囲炉裏(いろり)の間寒い冬を過ごすために、保温効果のある土壁で囲まれた部屋に、囲炉裏があります。「一名土室(つちむろ)」とも呼称されます。室井すわぁ〜ん!

現在のように囲炉裏が設置されてからは山内の僧侶たちがこの部屋に集って寝食を共にしたとも伝えられており、現在でも現役で使用されている囲炉裏になります。

よって大規模な護摩祈祷などが催されるときは拝観中止になることがあります。青嶋ぁ〜!確保ぉぅ〜!

なお、この囲炉裏の間には弘法大師作と言われる「愛染明王像」が安置されています。

台所と二石釜【和歌山県重要文化財】

現在は使用されていないようですが、昔はこの3つの釜で二石(約280kg)、人数で例えると僧侶約2000人分のご飯を炊けたようです。釜が横に3つ並んでいますが、1つの釜で7斗(98kg)のご飯が炊けたそうです。

焚口は床下にありますが、釜の後方に廻ると開閉できる床板があって、その床板を開けると階段が出てきて降りた先が焚口になっているようです。

釜の上のお札のようなものは、修行を経てやっと僧侶になれた人の名前が記された札です。その札が並ぶ中央で祀られているのは台所の神様である「荒神さん(三宝荒神)」です。

なお、この台所および釜もふくめて和歌山県重要文化財の指定を受けています。




ねずみ落とし

東大寺大仏殿近くにある正倉院・正倉(しょうそういん)はご存知でしょうか?中学校などの歴史の教科書で登場してくる定番の”アレ”です。

正倉院・正倉の床下の柱の上部には建物から飛び出る形で板が据えられています。これが俗に言う有名な「ねずみ返し」です。

その「ねずみ返し」ですが、この金剛峯寺でも高野山特有とも言えるちょっと変わった「ねずみ返し」があります。

金剛峯寺に設置されている「ねずみ返し」は、正しくは「ねずみ落とし」と呼称し、これは天井から吊るされる形の棚があって、その棚の台となる部分に穀物類を置けるようになっています。

ただ、おもしろいのは棚の上部に厚めの紙が巻かれていて、棚の上部よりも台部分が小さく作られています。

⬆️棚の上部に厚めの紙が巻かれている。台が上部の面積よりも小さいのでネズ公は台にたどり着けない。ムフフ

こうすることで仮にネズ公が棚の上部によじ登って、真下の台部分へ行って穀物を食べ荒らそうとしても紙があるのでスベり落ちるワケです。

よく考えた仕掛けです。金剛峯寺へ訪れた際はぜひ!ご覧になってください。そしてあなたの自宅でも活かせるようであれば活かしてみてください。ウフ

大黒様の祭壇

少し不思議な光景ですが、金剛峯寺の台所には神棚があって大黒天が祀られています。大黒様(大黒天)はインドが発祥の仏様ですがインドでは台所で祀られていたようですが、日本でも伝来した当初は台所の神様として台所となる場所で祀られていました。

金剛峯寺では食堂に大黒天を祀ることが昔からの習慣になっているようで、現在使用している食堂にも神棚があって大黒天が祀られているようです。(一般立ち入り不可)

だとすればこの台所に大黒天が祀られているのは少し変です。「かつてはここが食堂であったのではないか?そんな気がする・・」などと寺務所の方がつぶやいておられました。

蟠龍庭(奥殿)

金剛峯寺の蟠龍庭は日本一の規模を誇る石庭です。蟠龍庭については当サイトの↓以下の別ページでご紹介しております。

真然大徳廟(真然廟)

金剛峯寺の境内には、大師・空海の甥であり、空海の次の後継者である「真然(しんねん)」墓廟があります。

この墓を「真然大徳廟(真然廟)」と呼称します。

真然大徳廟(真然廟)」に関しては当サイトの↓以下の別ページにてご紹介しております。

その他の金剛峯寺の見どころ

御朱印

金剛峯寺にもオリジナルの御朱印が存在します。中央に大きく「遍照金剛」の墨書きがあります。

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「遍照金剛」とは、大師・空海が師である「恵果(けいか)」から授かった「もう1つの名前」のことです。




金剛峯寺の「ご詠歌」の御朱印

ご詠歌」とは、仏教の教えを「五・七・五・七・七」の和歌で詠んだものです。

阿字の子が 阿字の古里 立ち出でて また立ちかえる 阿字の古里 」と筆書きされています。

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このご詠歌は大師・空海自らが詠んだ歌と伝わっています。
「阿字」は「大日如来」を指し、ご詠歌の意味合いは「生きとし生けるもの皆すべて大日如来から生まれ、最後には大日如来のもとへ帰っていく」と、言った意味合いが込められています。
これは大師・空海が悟った真言密教の悟りの境地でもあります。

  • 金剛峯寺の各・御朱印の値段:300円
  • 金剛峯寺の御朱印の授与場所:金剛峯寺境内・授与所

金剛峯寺・血曼荼羅(絹本著色両界曼荼羅図)

金剛峯寺には「両界曼荼羅図(りょうかいまんだらず)」、通称「血曼荼羅」と呼称される重要文化財にも指定を受けているほどの曼荼羅が飾られています。

この血曼荼羅は平安時代に一世を風靡した平家の総大将・平清盛によって奉納されたものになります。

現在、オリジナルは大切に保管されており、模造したもの(レプリカ)が飾られています。

金剛峯寺・血曼荼羅ついても当サイトの↓以下の別ページでご紹介しております。

金剛峯寺で体験できること

阿字観

阿字観は金剛峯寺内の「阿字観道場」で開催されます。

阿字観についても当サイトの↓以下の別ページでご紹介しております。

金剛峯寺境内案内人について

高野山案内ガイド

高野山・金剛峯寺では、「金剛峯寺境内案内人」と呼ばれる一種のガイドさんがいます。

「金剛峯寺境内案内人」とは?

「金剛峯寺境内案内人」とは、高野山・金剛峯寺が主催している高野山検定に合格した方を対象にして、金剛峯寺が高野山のことをもっと知ってもらえるように設けた制度です。

他のガイドと違うのが、試験を受けて合格しないと「金剛峯寺境内案内人」になれないので、高野山に関しての知識や案内は信用力があります。

高野山全般の歴史や金剛峯寺・奥の院などの歴史を、より深く知りたい方は案内ガイドを利用してみてください。

「金剛峯寺境内案内人」のガイド申し込み方法

下記、事項を電話にてお申し込み。

  • 住所
  • 氏名
  • 連絡先
  • 電話番号(携帯含む)
  • 希望する案内日
  • 当日の案内人数

申込先

高野山観光協会

住所:〒648-0211 和歌山県伊都郡高野町高野山600番地
電話番号:0736-56-2616

注意事項

すでに案内人を予約済で当日キャンセルが発生した場合、ガイド料金の半額をキャンセル料としての支払い義務が生じます。

金剛峯寺に正式参拝方法があった?!

金剛峯寺の前に広がる壇上伽藍は大師の思想により、両界曼荼羅に位置付けられることから、伽藍内を右回りで参拝するのが良いとされています。(曼荼羅は東南西北となっている。インドの方角を基軸として描かれている)

具体的には、右肩を金堂内部に安置される御本尊へ向けて、そこから時計回りに回るのが良いとされています。

つまり、金堂から右回りという解釈です。

これは僧侶が袈裟から右肩を出していることに由来したものでもあり、仏教の右繞(うにょう)の礼法に則ったものでしょう。

これに倣い、この金剛峯寺境内も右回りで回るのが正式な参拝方法とのこと。

金剛峯寺のINFO

住所:〒648-0294和歌山県伊都郡高野町高野山132
URL:http://www.koyasan.or.jp/

金剛峯寺の拝観料金や拝観可能時間については以下のページをご覧ください。

 関連記事:高野山・金剛峯寺「拝観料・営業時間・見学所要時間・見どころ・毎年恒例行事(イベント)」一覧

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