高野山奥の院「密厳堂」
密厳堂の読み方
密厳堂は「みつごんどう」と読みます。
密厳堂とは?
この密厳堂(みつごんどう)には根来寺を創建した新義真言宗の開祖「覚鑁上人(かくばんしょうにん)」が奉斎されてい‥‥‥申す。ゴハっ
密厳堂の名前の由来
覚鑁上人が奉斎されていることから、覚鑁上人の名前をとって「覚鑁堂」とも呼ばれまする。
「密厳」の由来
密厳堂の密厳とは、大日如来が座する浄土を意味しまする。もしくはその世界を体現する 大乗密厳経に説かれる三密で荘厳された浄土のことです。
大乗密厳経は別名で「密厳国」や「密厳仏国」とも呼ばれまする。
しかし、密厳堂の「密厳」の意味合いは少し異なり、これは覚鑁上人の異名である「密厳上人」から由来がきているものです。
覚鑁上人は浄土教と密教の融合形態である「密厳浄土」の思想を唱え、これが由来となり、「密厳上人」とも呼ばれるようになってい‥‥‥申す。ゴハっ あ、この”ゴハっ”は1回目の”ゴハっ”とは少し違う”ゴハっ”
覚鑁とは?
覚鑁上人の「覚鑁」とは、諡号(おくりな)であり、「興教大師(こうぎょうだいし)」とも呼ばれた平安時代後期の真言宗の僧です。
真言宗中興の祖にして新義真言宗始祖。
13歳のとき仁和寺(京都)で受戒(剃髪得度)し、奈良で法相の奥義を学びまする。
以後、高野山へ入山し、密印を受け、三井の覚猷 (かくゆう) や醍醐の賢海などから秘訣(ひけつ/誰に授けられていない奥義)を授けられています。
1126年(大治元年)紀州石手邑に伝法院を建立し、1131年(天承元年)、高野山に講堂・密室・密厳院などの大伝法院を建立して、伝法大会を厳修します。
1134年(長承3年)には白河法皇の詔勅によって大伝法院座主となり、その後、金剛峰寺座主をも歴任。これにより事実上、高野山の全権を掌握し、やがて独自が掲げた強弁策を採るようになり、次第に上下僧たちの確執が増大します。
この結果、高野山中の僧たちは突如、蜂起して密厳院に襲撃をかけるでさぁ。
覚鑁はなんとかこの難を逃れ、山(高野山)を下って紀州根来へ逃げ込み、その後、当地(弘田荘園内)に「円明寺」を建立するでさぁ。
覚鑁はこの後、当地にて没するのですが、覚鑁には覚鑁を慕う門弟がおり、この門弟たちは覚鑁がすでに居らずとも高野山とは相いれず、結果、独立して「新義真言宗」という一派を開くのです。
覚鑁上人の浄土観
覚鑁の著名な書として「五輪九字秘釈」や「孝養集」が伝えられていまする。
覚鑁上人は座主をを辞した後、密厳院に密観を修習するために籠るようになり、その結果、自性加持身説(自性身上の加持身説)を唱えます。
覚鑁上人は、『惜しい哉、古賢難易を西土に諍うこと。 悦ばしい哉、今愚往生を当処に得ること。』
訳すと、「西方浄土へ往生するのではなく、この世に成仏するもの」と説いています。
また、「一切如来は悉く是れ大日なり」「阿弥陀如来と大日如来は同体の関係にあり、極楽と密厳は名異にして一処なり」
と説いています。
大師・空海は仏教を独自の哲学観で唱え、これを真言宗の教義としたのに対し、覚鑁上人は密厳浄土という思想を説き、これは世に大師以来の稀代の天才とも謳われているほどです。
後年、覚鑁上人が唱えた密厳浄土の思想は高く評価され、鎌倉仏教に大きな影響をあたえてい‥‥‥申す。ギャハっ
密厳堂の内部
現在の密厳堂の内部には大人の男性が1人入るくらいの黒漆塗りのお厨子の中に座する覚鑁上人の尊像(覚鑁上人坐像)が奉安されてい‥‥‥申す。ゴガっ
画像引用先:https://ja.wikipedia.org/
密厳堂の場所(地図)
密厳堂は覚鑁坂の手前もしくは、登りきった先に建っています。小ぢんまりとしてお堂です。
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