智泉大徳廟
創建年:不明
推定:1796年(寛政8年/江戸時代中期)以前
※1796年に作図された「高野全山絵図」に「智泉廟」が掲載されている。
「智泉大徳廟」の読み方
ちせんだいとくびょう
「智泉(ちせん)」の意味
平安時代前期の真言宗の僧侶であるとともに空海の甥。または空海の十大弟子の中の1人。母ジャが空海(弘法大師)の姉(俗姓菅原氏/一説に阿刀氏とも)と云われることから出身は讃岐。
「大徳(だいとく)」の意味
徳の高い僧
「廟(びょう)」の意味
祖先の霊をまつる建物。おたまや。やしろ。
智泉大徳廟とは?
まとめると智泉大徳廟とは、空海の十大弟子の中の1人である智泉の御霊を奉安するために築かれた霊屋(霊廟)のこと。
智泉大徳の来歴
797年/延暦16年 | 9歳のとき空海に連れられて故郷を去り、大安寺の勤操に預けられたと伝えられる |
789年/延暦8年 | この世に生を得る。おぎゃ〜!オぎゃ〜!🤱母乳いらっしゃ〜ぃ💕 |
802年/延暦21年 | 14歳のとき空海の近士(従者)となったと伝えられる |
804年/延暦23年 | 16歳の時に大安寺を本寺として授戒す(出家) |
804年/延暦23年7月 | 入唐留学僧・空海の乗る遣唐使船が肥前松浦を出発。智泉も侍者として同行したと伝えられる |
806年/大同元年10月 | 空海が唐から帰国。大宰府に留まる。大同年中に空海から両部灌頂を受けたと伝えられる |
809年/大同4年7月 | 嵯峨天皇の皇后(橘嘉智子)が皇孫誕生祈願の勅命を発し、智泉は山城国相楽郡「報恩寺(現在の岩船寺)」を建立す。普賢菩薩を手彫りしながら祈念す。 空海が入京、高雄山寺に入る。智泉もこれに随行す。 |
810年/弘仁元年 | 嵯峨天皇の第二皇子・仁明天皇がこの世に生を得る。智泉、祈願の巧により「神僧」と称される。世間から崇敬を集めた。 |
弘仁3年11月13日(812年12月20日) | 智泉、最澄(伝教大師)から書簡と進物を受けとり、空海へのとりなしを依頼される。 |
812年/12月 | 智泉、空海により高雄山寺の三綱の1人である羯摩陀那(かつまだな/維那(いな)のこと)に選ばれる(ほかは杲隣、実恵) 以来、空海十大弟子の1人となる。 |
弘仁年間 | 智泉、空海に随い高野山内にて草庵を結ぶ(のちの高野山東南院) |
824年/天長元年9月 | 智泉、画技に優れるあまり神護寺最初の定額僧(朝廷お抱えの僧)に選ばれる。智泉様と絶賛される。 |
天長2年2月14日(825年3月25日) | 智泉大徳、高野山東南院に病床に伏し、帰らぬ人に。(延暦8年(789年)生説なら享年37歳)。 |
智泉大徳廟の歴史
1924年(大正13年)9月14日、一千百年忌を奉祝して石碑が献納されまする。
1968年(昭和43年)に参道が修築されてい‥‥‥申す。グハっ
【亡弟子智泉が為の達嚫文】
性霊集(せいれいしゅう)の巻八には、825年(天長2年)に逝去した智泉の菩提を弔うために空海が書き記した「亡弟子智泉が為の達嚫文(だつしん)」が集録されている。
哀しい哉(かな) 哀しい哉 哀れが中の哀れなり。
悲しい哉 悲しい哉 悲しみが中の悲しみなり。
哀しい哉 哀しい哉 復(また) 哀しい哉。
悲しい哉 悲しい哉 重ねて悲しい哉。
智泉大徳廟の入り方
智泉大徳廟は壇上伽藍の敷地内にあるように見えるが実は敷地内から行けない。
だから宿坊「龍王院」の前を通る道路へ出なければならない。つまり、壇上伽藍にいる場合、いったん、蛇腹道を通って再び、戻ってくる形で龍王院を目指すことになる。
智泉大徳廟の場所(地図)
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