高野山 金剛峯寺「血曼荼羅(絹本著色両界曼荼羅図)」【重要文化財】

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高野山 金剛峯寺「血曼荼羅(絹本著色両界曼荼羅図)」【重要文化財】

↑金剛界曼荼羅

↑胎蔵曼荼羅

制作年

  • 1156年(保元元年)※平安時代末期
修善年

  • 2007年(平成19年)
大きさ(オリジナル)

  • 縦幅:4・3m
  • 横幅:4m
重要文化財指定年月日

  • 1908年(明治41年)1月10日
寄進者

  • 平清盛

金剛峯寺「血曼荼羅(絹本著色両界曼荼羅図)」の読み方

「血曼荼羅」は「ちまんだら」と読み、「両界曼荼羅図」は「りょうかいまんだらず」と読みます。

「血曼荼羅(絹本著色両界曼荼羅図)」の名前の由来

血曼荼羅は文化財登録名は「絹本著色両界曼荼羅図」が正式ですが、敢えて「血曼荼羅(ちまんだら)」で登録を受けています。

これには理由があり、なんと!平家物語によれば、この血曼荼羅を奉納したのがかの平家の総大将である平清盛であり、自らの額から出た血を画具(絵の具)に混ぜ込んで、胎蔵界の大日如来の宝冠部分に塗ったことから「血曼荼羅」の名前が付されています。キャ~~

いずれにしても自らの血を混ぜ込んで制作するなど、尋常ではない、相当な思い入れがあったからに他ならないでしょう。




ところで・・「両界曼荼羅図」とは?

「両界曼荼羅図」とは、大師・空海が創造した真言密教における奥義を具現化したものと言い換えることができます。

別名で「両部曼荼羅(りょうぶまんだら)」や「両界曼荼羅(りょうぶまんだら)」とも呼称します。

この曼荼羅はなんと!実は2つ存在し、これら2つの曼荼羅の総称が「両界曼荼羅図(両部曼荼羅)」になります。

2つの曼荼羅

  • 金剛界曼荼羅
  • 胎蔵(胎蔵界)曼荼羅

「金剛界曼荼羅」とは?

金剛界曼荼羅とは、「こんごうかいまんだら」と読み、これは「金剛頂経(こんごうちょうきょう)」と言う経典の世界を具現化した曼荼羅図になります。よく見ると9つの正方形に区切られて、いるのが分かります。

「金剛頂経」とは大師が悟った1つ境地である「即身成仏」のことが記された経典になります。

「即身成仏」とは「そくしんじょうぶつ」と読み、つまりは「生きたまま仏になること」です。

大師・空海は今現在も奥の院で生存しており、修業されているというのは即身成仏の状態のこと指します。

そしてこれら9つの正方形の内側の絵柄は(九会/くえ)と呼称される1つの世界を表現しています。..飯を食え

金剛界曼荼羅の9つの世界(九会)

上段左から

四印会(しいんえ)・一印会(いちいんえ)・理趣会(りしゅえ)

中断左から

供養会(くようえ)・成身会(じょうじんえ)・降三世会(ごうざんぜみょうおう)

下段左から

微細会(みさいえ)・三昧耶会(さんまやえ)・降三世三昧耶会(ごうざんぜさんまやえ)

 

中央
四印会一印会理趣会
供養会成身会降三世会
供養会成身会降三世会
微細会三昧耶会降三世三昧耶会

これらの「会(世界)」にはそれぞれ「欲」と「その欲への戒め」が込められています。

「胎蔵界曼荼羅」とは?

胎蔵(胎蔵界)曼荼羅」とは「だいぞうまんだら」もしくは「たいぞうかいまんだら」と読み、これは「大日経」という密教の経典に記された世界を表現しています。

別名で「大悲胎蔵生曼荼羅(だいひたいぞうしょうまんだら)」とも呼称し、この曼荼羅では「大日如来の世界」が描かれています。

正式には「胎蔵曼荼羅」と呼称し「界」が抜けた表記が正式です。金剛界曼荼羅は「界」が付されていますので一般的に「胎蔵界曼荼羅」と呼称されます。

「大日如来の世界」とは、金剛界と胎蔵界の2つ世界が合わさった世界を指します。

金剛界は真言密教における「悟りの境地」を示し、胎蔵界は上述したような「仏を含めたすべての生きとし生ける物は大日如来の胎内から生まれた」という一種の原理を示しています。

大日如来とは、すべての創造神であり、すべての仏も人や動物も大日如来が創造したものとされております。

また、神仏習合の時代では、神道における最高神「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」と習合して篤い崇敬が寄せられていました。

「血曼荼羅(絹本著色両界曼荼羅図)」の歴史

この血曼荼羅は1186年(保元元年/平安時代)に平清盛が金剛峯寺の奉納したと云われております。

血曼荼羅がもともとあった場所は、中国西安(長安の都)にある「青龍寺(せいりゅうじ)」であり、この寺院に伝わる寺宝であったものです。

青龍寺と言えば、大師・空海が修行した寺院であり、後にこの寺院の長であり師匠でもある「恵果(けいか)」から真言密教の後継者に選ばれた場所でもあります。

後継者に選ばれた時に師・恵果から授ったものの中の1つにこの「両界曼荼羅図(血曼荼羅)」があり、後に日本へ帰国する際に一緒に持ち帰ったものです。

日本へ持ち帰った後、平清盛の手に渡り、高野山へ奉納(返却)されました。

そしてすでに上述していますが、清盛は「両界曼荼羅図(血曼荼羅)」を高野山へ奉納する際、自らのド頭に傷を入れて血を垂らし、その血を曼荼羅の色彩に混ぜたことが「血曼荼羅」の名前の由来になっています。




平清盛が両界曼荼羅図(血曼荼羅)を高野山へ奉納した理由

清盛がまだ30歳の頃の話ですが、この頃の清盛は後世に語り継がれるほどの権力をまだ手にしていませんでした。

994年(正暦5年)に高野山の大塔(根本大塔)が落雷で焼失し、1088年(寛治2年)に時の権力者・白河上皇が再建を促します。

しかし御願は即座に成就せず、後に鳥羽院(鳥羽天皇)が成り代わり、清盛に「高野山・大塔」の再建を命じることになります。

この再建を見事に成し遂げた清盛のもとへ「とある1人」の年老いた僧侶が訪れ、御礼と感謝の言葉を告げます。

その際、その老僧は「荒れ果てた厳島(宮島・厳島神社)の再建もお願いできませぬか?オホ」・・と清盛に告げたそうです。

この言葉を聞いたとたん、清盛は顔色を豹変させ、この老僧があの大師・空海であることを察します。

清盛が一声かけようと意気込んだ瞬間、老僧はスっと姿を消したそうです。

空海であることを確信した清盛は、すぐさま高野山の近藤君へ・・ああイヤイヤ間違い「金堂」!!へ、上記の曼荼羅を奉納したと云われております。

血曼荼羅の特別一般公開

この血曼荼羅(両界曼荼羅図)は現在は金剛峯寺にて保管されていましたが、850年以上の時を経た劣化に伴う損失が懸念されたために、2007年(平成19年)に補修(修理)されています。

その際、「原寸大(縦4・3メートル、横4メートル)」と「縮小版(縦1・98メートル、横1・86メートル)」の2つの曼荼羅がオリジナルを元にして、806年(大同元年)当初の姿のままに忠実に再現されており、この曼荼羅が高野山霊宝館で特別一般公開されています。

尚、この血曼荼羅は「日本に現存する最古の彩色曼荼羅図」と云われております。

血曼荼羅は霊宝館で常時、展示されているワケではありませんので、展示される機会が到来した暁には是非!霊宝館へ足を運んで「その目ん玉が飛び出るくらい見開いて」間近でジックリ見てください。

高野山・霊宝館の問い合わせや詳細に付きましては当サイトの↓以下の別ページにてご紹介しております。

実は信じられないほどの年数がかかっていた血曼荼羅の修復

この血曼荼羅の修復は2007年から開始されており、その8年後のとなる2015年にようやく修復を終えています。

これはつまり、我々一般には目に見えないところで8年と言う歳月をかけて修復されていたことになります。

当時の色彩を再現するのは非常に困難を伴う作業であり、高野山の総力と、色彩のエキスパートである印刷業界最大手の「凸版印刷株式会社(とっぱんいんさつ/本社:東京都千代田区)」の技術の総力を結集して修復計画が成されています。

この修復では、劣化に伴い不鮮明であった部分までもが鮮明に再現されており、850年間、一度も知られることがなかった色艶までもが明らかにされています。

曼荼羅に描かれている諸仏尊を再現してみたところ、ぬっ、ぬっ、ぬっ、..ゴホっ、ぬぅ、あんと!「1895尊もの仏像」が描かれており、これらすべての仏像の再現に成功しています。オぅ

さらに2012年3月には同社の「高品質デジタルプリント技術」を用いて職人・絵師と共同作業によって、上述したオリジナルともとにして850年当時の曼荼羅を完膚なきまでに再現しています。

尚、これらの修復計画は2015年(平成27年)の高野山・開創1200年事業の一環として行われています。

高野山・血曼荼羅の安置場所

高野山・血曼荼羅(両界曼荼羅図)は高野山・金剛峯寺に安置されています。

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