高野山の歴史(年表)と「弘法大師・空海の歩み」

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知られざる「高野山の別名」

大師は高野山を開創する以前から高野山で修行をしていたと伝えられており、高野山に伽藍を開創した後、この高野山全体を「金剛峯寺(こんごうぶじ)」や「法身の里(ほっしんのさと)」とも呼んでいます。

「法身」とは、「色や形がない真実そのもの」を意味し、これはすなわち大日如来のことを意味します。高野山で修行をすれば大日如来と同調することが可能となり、永遠の瞑想に入って生きながらにして仏になることができることを強く示唆しています。

高野山の歴史(年表)

高野山の歴史をお話しする前にまず、高野山を開創した弘法大師・空海の歴史をお話しする必要があります。

大師・空海の出身地

空海は、香川県讃岐国多度郡に生まれ、その頃の苗字は「佐伯(さえき)」という名前でした。

当時の佐伯氏と言えば、官職を与えられ朝廷に仕えた、割と裕福な家柄でした。

そんな裕福な家庭に育ちながらも、勉強熱心で向上心が人並み外れた空海は、学問を次々に学んでも、すぐにその学問を吸収したといいます。

このため、当時の日本の中心都市であり、学問の髄が集積されていた日本の都・京都へ昇ることになります。

しかし京都でも学問を学び尽くした空海は、再び学ぶものがなくなり、学問から得た本当の答えを探すために山に入り、自ら修行しました。

しかし、修行を重ねても重ねても本当の答えは見つからず、より一層、逆に疑問は増していきました。

この頃から空海は、様々な諸国の山へ入り、修行を重ねたといいます。

やがて時は流れて、諸国を巡るうちに空海は、中国の「ある経典」と出会うことになります。

この経典こそが、「密教の経典」でした。

その経典に自らの答えの糸口を見出した空海は、ある決心をすることになります。

大師・空海、「大海を渡る」

そして、804年、時に空海31歳の時に、経典から得た「真の答え」を学ぶため、経典が編纂された場所である「唐(中国)」へ行くことを決心します。

そして唐で最も名僧と呼ばれていた「青龍寺(しょうりゅうじ)」の高僧に会いに行きました。

しかし、容易く中国に行けたワケではありません。

当時、日本から中国へ派遣していた「遣唐使(けんとうし)」の中の「留学生」という位置づけで「唐」で20年学問を探求する目的で中国・唐へ渡ることを許されました。




中国・唐「青龍寺(しょうりゅうじ)」の高僧「恵果(けいか)」と空海の出会い

その高僧である「恵果(けいか/えか)」は正統な真言密教の継承者(第七祖)でしたが、空海と接するうちに空海の素質や人格などを見抜き、自らの後継とすべく、おおよそ8ヶ月という短期間で密教の奥義を空海に授け、空海を真言密教の第八祖としました。

この後、恵果は亡くなりことになり、それに伴い空海も日本へ戻る決心をすることになります。

また、恵果から奥義を授かった際に、「遍照金剛(へんじょうこんごう)」という名前も授かっています。

高野山で御朱印をいただいた際、「遍照金剛」と墨書きされている理由がこれになります。

806年に中国から日本に帰った空海は、観世音寺(福岡県太宰府市観世音寺)や高雄山寺(神護寺/京都市右京区高雄)に滞在し、しばらく国の発展のために寺院の造営や修善などの業務に従事していました。

810年(弘仁元年)には、奈良・東大寺の別当(住職)に就任し、4年間務めることになります。

この時、東大寺に「南院」と呼称される堂舎が造営され、大師はここを拠点に布教活動を行っています。

実は東大寺では大師が別当であった頃の習わしが、今現在でも受け継がれたおり、盧遮那仏(大仏さん)の前で読まれる読経は、一部・密教経典の「理趣経(りしゅきょう」が読経されています。

また東大寺の修行の中には「四度加行(しどけぎょう)」と呼ばれる密教特有の修法も受け継がれています。

その後、真言密教を広めるための許可を天皇陛下にお願いし、810年には「嵯峨(さが)天皇」から「真言宗」を開く許しを得ています。

空海は、若いころに高野山で修行していたこともあり、この山に真言密教の道場を設立することを願いでています。

そして、816年に嵯峨天皇から高野山の地を賜り、高野山を開創します。

高野山の山の神と空海との出会い

空海が高野山を開創した理由の1つに中国・唐から出国する時に所持していた密教法具・三鈷杵(さんこしょ)が高野山内の木の枝に引っ掛かっていたことが挙げられます。

詳しくは出国の際、これからの自らの運命を仏に問いただすために、中国・唐の浜辺で海へ向かって三鈷杵(さんこしょ)を投じました。

すると、落ちることなく逆に飛行して日本の方角へ飛んでいき、つまり、その時投げた三鈷杵が高野山内の木の枝に引っかかってというわけです。

さらに高野山へ入ると2匹の犬と狩人に出会うことになります。

狩人と2匹の犬は高野山内を案内してくれ、その先で草案を築くことになります。

後にこの時の狩人が山の神である事が分かり、早々に山の神をお祀りすることを決意します。

その神となるのが「丹生明神」と「狩場明神(高野明神)」と呼ばれる神であり、現在も壇上伽藍内の御社(みやしろ)に祭祀されています。

尚、これらの神々と空海の出会いを伺わせるものとして、平安中期に書かれた「金剛峯寺建立修業縁起」があります。

この中に登場する、「丹生明神」と「狩場明神(高野明神)」は、山の神・高野山の開創に関わる神としてあがめられ現在でも高野山の麓に位置する「丹生都比売(にうつひめ)神社」に祀られています。

「金剛峯寺」と「丹生都比売神社」が、古くから密接な関係があるのは、このような背景が存在したからです。

高野山・金剛峯寺の誕生と「弘法大師・空海」の誕生

空海は、この高野山内に大塔や金堂をはじめ、諸堂の建立を始めます。

そして、それらの一山全体を「金剛峯寺」と名付けました

つまり、本来の金剛峯寺とは現在の高野山そのものを指し、本来は高野山全体が金剛峯寺という解釈になります。

それから約20年間は高野山の造営や真言宗の布教に専念し、高野山を中心に全国に真言密教を広め、人々の心を救う活動をしています。

822年(弘仁13年)には、東大寺の別当時代に造営した東大寺・南院に「灌頂道場(かんじょうどうじょう/現在の真言院)」を開き、ここに21人もの真言宗の僧侶を住まわせています。

823年には天皇から「東寺(とうじ/=教王護国寺(きょうおうごこくじ)」を賜り、東寺を真言密教の道場に定め約50人もの高僧を住まわせています。

そして「穀」を絶つなどの準備をした後、835年3月21日に奥の院にて「入定(にゅうじょう)」します。

その86年後となる921年(延喜21年)10月27日に「醍醐(だいご)天皇」から生前の行いを尊んで「弘法大師」という名前が贈られています。

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