慈尊院
「高野山」と耳にすれば、高野山の山頂に位置する「金剛峯寺」や「壇上伽藍」「奥の院」などをイメージする方がほとんどだと思われます。
しかし、元来、高野山の山頂へたどり着くには、高野口から山頂まで徒歩で歩いて登ったのです。
したがって、高野山と言う壮大な伽藍の入口である「高野口」にも大師が築いた伽藍やお堂が立ち並びます。
そのうちの一つが、この九度山の「慈尊院(じそんいん)」です。
「慈尊院」の歴史
空海は、唐から帰国した後、しばらくは天皇のお膝元、朝廷の官職に就き、行基などと同じように全国各地でお堂の修繕や寺院の造営を営んだ。
業務を坦々とこなしていくうちに、時の天皇である「嵯峨天皇」から絶大な信頼を得て、やがて嵯峨天皇より高野山に伽藍を開くことを許され、高野山に伽藍を開創することになる。
空海の母親の死
空海の母親たる「阿刀氏(玉依御前)」は、835年(承和2年)2月5日に83歳この世を去ります。
その時、空海は母の死を知らなかったそうだが、不思議なことに、空海は母の死を理解し、もうすでにこの世にいないことが分かったらしい。
この時、大師が母の死を知ったのは「弥勒菩薩」が自らの夢枕に立ち、その夢告にて母がこの世を去ったことを知ったらしい。
程なくして大師は、毎日、雨や嵐の日も自らのことを思って手を合わせてくれた母のこと思い、母の「廟堂(霊廟)」を建立した。
時に816年(弘仁7年)のこと。
そして、夢枕に現出した弥勒菩薩に母親の面影を感得し、菩薩を本尊として奉祀するに到る。
慈尊院の名前の由来
弥勒菩薩は、別名で「慈尊」とも呼ばれることから、「慈尊院」と呼ばれるようになり、これが定着したらしい。
一説に、入滅した大師は、56億7000万年後に弥勒菩薩と同化して、ふたたび現世に現出し、あまねく衆生を救済するといわれる。
慈尊院の高野山における役割りとは?
高野山の山頂までは距離があり、体力も必要で時間もかかります。
そこで創建当初の慈尊院は、高野山の入口にて高野山の寺務所(受付)として、山頂にある高野山 総本部との取り次ぎを行う重要な位置づけにあったとか。
なお、現在の高野山の一切における業務は、金剛峯寺に集約されています。
そして、忘れていけないのが、この慈尊院は「ユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の一部として、世界遺産に登録されている寺院だという事実。
慈尊院の御本尊「木造弥勒仏坐像」は、国宝にも登録指定される。
慈尊院・木造弥勒仏坐像(廟所安置) 【国宝】【秘仏】
造立年
- 892年(平安時代)
像の造り
- 一木造り
像高
- 約90cm
材質
- ヒノキ
重要文化財指定年月日
- 1962年(昭和37年)
国宝指定年月日
- 1963年(昭和38年)7月1日
作者
- 会理仏師
木造弥勒仏坐像の読み方
木造弥勒仏坐像の読み方は、「もくぞうみろくぶつざぞう」と読みます。
木造弥勒仏坐像は絶対秘仏となりますので、空海の命日の21日に因んで21年に1回しか公開されません。
慈尊院・弥勒堂(じそんいんみろくどう)
創建年
- 1185年から1274年(内陣)鎌倉時代後期
- 1540年(天文9年)(諸堂)戦国期
大きさ
- 四辺三間(約5.5m)
建築様式(造り)
- 宝形造り
- 一重
屋根造り
- 檜皮葺
重要文化財指定年月日
- 1965年5月29日
慈尊院・多宝塔【和歌山県指定有形文化財】
創建年
- 1540年(天文9年)
再建年
- 1624年(寛永元年/江戸時代)
和歌山県指定有形文化財指定年月日
- 1994年(平成6年)4月20日
慈尊院までのアクセス方法
高野口駅(南海)から「徒歩」の場合
- 距離:約3Km
- 所要時間:約35分
九度山駅(南海)から「徒歩」の場合
- 距離:約1.7Km
- 所要時間:約25分
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