壇上伽藍(金剛峯寺)「6時の鐘」

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高野山には特に有名な鐘楼が2つ存在し、「真っ白な珍しい鐘楼」と壇上伽藍の出入口となる「蛇腹道の真向かいに高台の上にそびえ立つ鐘楼」があります。

  • 1つ目の真っ白な鐘は、弘法大師・空海が考案した、お大師さまの弟子で甥でもある「真然」が発案し鋳造した鐘。
  • 2つ目の高台の鐘は、戦国時代の名将・福島正則が1618年に寄進した鐘。

以下ではこのうち2つ目の「福島正則が寄進した」方の鐘楼の名称(読み方・別名)や歴史・建築様式などをご紹介しています。

壇上伽藍(金剛峯寺)「6時の鐘」

壇上伽藍・「6時の鐘」

創建年

1618年(元和4年/江戸時代)

再建年

1645年(寛永12年/江戸時代)

建築様式(造り)

入母屋造り

屋根の造り

檜皮葺き

発願者

福島正則(戦国武将)


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「6時の鐘」の名前の意味・由来

「6時の鐘」の名前の由来とは、単純に午前6時からこの鐘の音色が鳴り響くからです。

この鐘は、午前6時から22時までの間の時間帯のうち、偶数時のみ高野山内に時を刻む鐘音を響かせてています。

「6時の鐘」の歴史・由来

1618年(元和4年/江戸時代)に戦国武将「福島正則(ふくしままさのり)」が奉納したこの鐘は、金堂の南東に位置する鐘で、高野四郎(大塔の鐘)と区別するために「6時の鐘」と呼ばれています。

ちょうどこの頃、福島正則は先の大戦となる「関ヶ原の大戦」の功労を認められ、家康公から「安芸国・備後国」を与えられており、その安芸国を統治するために「広島城」の普請(改修)を行っています。

福島正則がこの鐘を奉納した理由は母の菩提を弔うために造営したものだと伝えられておりますが、新たな土地を与えられ、これからのお家の興隆を祈願した意味合いもあると考えられます。

福島正則といえば、太閤秀吉の「賤ヶ岳七本槍(しずがたけしちほんやり)」と呼ばれた豊臣家きっての勇将として名を馳せた武将でもあります。その勇将ぶりは徳川家康公も高く評価していたとされ、その証として安芸・備後49万8000石を与えられ、当主(藩主)にまでなっています。

しかし、この6時の鐘は造営からわずか20年足らずとなる1640年(寛永7年)に焼失してしまいます。

それから5年後の1645年(寛永12年)に福島正則の異母兄弟となる息子「福島正利(ふくしままさとし)」によって再建されています。

すなわち、現在見ることのできる「6時の鐘」は、この正利が1645年(寛永12年/江戸時代)に再建したときの鐘になります。

なお、福島正則親子は幕府に了承を得ず広島城を普請したことが明るみとなり、この後、2代目将軍徳川秀忠の命により、信濃国(長野県)へ減封される形で転封となり、以後、福島家は歴史上から名前を消すことになります。

6時の鐘の梵鐘に残された銘文

実はこの6時の鐘の梵鐘には、次のような銘文が残されています。

是を打てば一切の悪道頓に停止を得、是を聞く時は10万の聖衆来りて共同を利す

6時の鐘の銘文の意味

この鐘を打てばたちまちのうちに一切の悪道と呼ばれる道へ進むことを断つことができるだろう。

そしてこの鐘音を聞くときは臨終の際、必ず極楽浄土へ誘われることだろう

高野山・6時の鐘の場所(地図)

6時の鐘は、金剛峯寺・駐車場の前の道をまたいだ前方、壇上伽藍・蛇腹道の出入口付近にあります。

⬆️壇上伽藍「蛇腹道」の出口から見た「6時の鐘」

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