【”壇上伽藍”の意味や由来とは❓】敷地内の堂塔一覧と見どころを..お知る❓

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「壇上伽藍」とは?

壇上伽藍(だんじょうがらん)」は、この壇上伽藍は、高野山 奥の院とともに、高野山の二大聖地の一つといわれる。

尚、大師は高野山全体こそが「金剛峯寺」だと称し、その中心的伽藍こそが、当該、壇上伽藍に‥あ、なっちゃぅ。

壇上伽藍の「伽藍(がらん)」の意味とは?

「壇上(だんじょう)」と「伽藍(がらん)」との2つに分けて読み解くと、それが何なのかが理解しやすい。

「伽藍」とは、僧侶が修行をする場所という意味で、由来はインドのサンスクリット語からきています。

サンスクリット語で「僧侶の修行場」と発すると「そうぎゃらんま(僧伽藍摩)」となり、略して僧伽藍や伽藍と呼ばれることに起因します。

殊に、高野山内の人々は、ほとんど単に「伽藍」と短称で呼びならわす。

本来、「壇場伽藍」の書き方が正式

実は元来、「壇場伽藍」の方が正式だったようです。

ところが後世にて、壇上伽藍の位置が一段上がった場所にあることから、書く際も「壇上伽藍」と書くようになってい‥申す。えっ

実際に現地に来てみれば分かることだが、周囲の地面から少し高い位置に堂塔が林立する。

「壇場」の意味とは?

殊に、「壇場」の意味とは、大師が高野山を開創したみぎり、高野山全体の様相を金剛界・胎蔵界曼荼羅に例えていたことから、高野山全体を「道場」という意味合いで「壇場」と書くとか。

壇上伽藍は両界曼荼羅の世界観を表現するもの

大師は、壇上伽藍を創造するみぎり、「胎蔵・金剛の両界曼荼羅(たいぞう・こんごう・りょうかいまんだら)」という大日如来が創造する世界観を、自らがイメージした真言密教の世界観とを習合させて具現化させたものだといわれる。

壇上伽藍は高野山開創において一番最初に造られた聖地

殊に、弘法大師・空海は高野山を開創するに際し、真っ先に造営に取り組んだ場所こそが、この壇上伽藍だったといわれる。

しかしながら、高野山開創という大事業に取り掛かってた当時、大師の手元には資金という資金がなく、結局、大師は壇上伽藍の完成を見ることなく、永遠の瞑想のため御廟の窟へ旅立つことに‥な、なっちゃぅ。




えぇっ?!壇上伽藍の建造物は理由があって同一の方向を向いている??

壇上伽藍に訪れると建造物の威容さに圧倒され、多くの人が気づきにくいと思われますが、実はある1つの方向を向いています。

その方向とはどの方向かお分かりになりますでしょうか?

その方向とは「南側」に‥なっちゃぅ。

壇上伽藍の思想的な中心となる建物は根本大塔ですが、建造物の配置に関しては金堂を中心に考えられています。

つまり金堂の正面が南側になりますので、それに倣い他の建造物も、ほぼ南側を向いて造営されています。

このことから壇上伽藍は南側が正面とされています。

南側が正面ということは中門が壇上伽藍の正面入口となりますが、実は2015年までは中門はなかったので、多くの参詣者は蛇腹道から壇上伽藍へ参詣していました。

しかし高野山開創1200年記念の記念事業において中門が再建され、2015年以降は中門をズカズカと通って晴々、壇上伽藍に参詣できるようになっています。

壇上伽藍が南側を向いているもう一つの理由とは❓

この高野山は麓に建つ慈尊院(じそんいん)から町石道を通って大門を経て壇上伽藍へ至ります。

通常の伽藍配置で例えると、大門は南大門にあたる門であり、その奥に中門、そしてその奥に本堂となる金堂が配置されます。

壇上伽藍の中門が通例の伽藍配置でいう中門であるならば、南大門にあたる大門とは正対して置かなければならず、さらに現在の壇上伽藍の本堂に位置付けられる金堂も並列状の配置になっていなければなりません。

ただ、この中門は大門とほぼ並列状の後方に建ちながら、大門とは正対しておらず、むしろ南側に間口が設けられ、南側を向いています。

さらに歪さを醸すのが大門と中門と金堂の位置関係図です。

中門と金堂のみが南面を向き、大門は西側を向いており、通例の伽藍配置とは大きく配置が異なります。

高野山大学が行なった中門付近の発掘調査によれば、弘法大師 空海が高野山を開創した当初の道が見つかり、当時の中門も現在と変わらずにほぼ同位置にあり、やはり中門は南側を向いていたようです。

これは往時の町石道も現在と同様、中門の前に見える大門から中門へ至る道路だったことを意味します。

しかしながら、往時は中門の前に町石道が通っていたものの、何せ中門の周りは池だったことから、町石道が現在の道路のように中門の向こうがまで延びず、ちょうど中門の前で屈折する形で中門の間口へ続いていたようです。

つまり、慈尊院から大門を経て中門を潜り抜け、壇上伽藍を拝し、その後、奥の院へ至ったことを意味します。

ちなみに中門の周囲に広がっていた往時の池の名残りとなるのが、現在、中門の脇に見える「蓮池」です。

往時の蓮池はもっと面積が広く、現在の勧学院ならびに大師教会のあたりまで広がっていたことも明らかにされています。

大師が現在地に壇上伽藍を開いた理由

現在の壇上伽藍は大師が開創した頃と同位置にあるものとされていますが、どうも大師が高野山を開創し、壇上伽藍を配置する場所を模索した時、現在地しか適した場所が見当たら無かったようです。

壇上伽藍という1つの境内(仏の世界)

壇上伽藍とは、弘法大師 空海が創造した仏の世界です。

ここに集まる1つ1つの建物をまとめて、壇上伽藍と呼びます。

以下では、壇上伽藍にある主要な建造物をご紹介しましょう!

壇上伽藍の建造物(見どころ)・一覧

📿高野山 壇上伽藍・「蛇腹道(じゃばらみち)」

📿高野山 壇上伽藍・「東塔(とうとう)」

📿高野山・壇上伽藍「三昧堂(さんまいどう)」

📿高野山・壇上伽藍「西行桜(さいぎょうさくら)」

📿高野山 壇上伽藍・「大会堂(だいえどう)」

📿高野山 壇上伽藍「愛染堂(あいぜんどう)」

📿高野山 壇上伽藍・「大塔(多宝塔・根本大塔)」

📿壇上伽藍・御影堂(みえどう)

📿高野山 壇上伽藍「准胝堂」

📿高野山 壇上伽藍・「孔雀堂」

📿高野山 壇上伽藍・「西塔(さいとう)」

高野山 壇上伽藍 地図

📿高野山 壇上伽藍・御社(みやしろ)

📿高野山・山王院(御社)

📿高野山 壇上伽藍・「三鈷の松(さんこのまつ)」

📿高野山・壇上伽藍「登天の松・杓子の芝」

📿高野山・壇上伽藍「六角経蔵(ろっかくきょうぞう)」

📿高野山 壇上伽藍・「金堂(こんどう)」

📿高野山 壇上伽藍「中門(ちゅうもん)」

📿高野山・壇上伽藍「中門(ちゅうもん)・仁王像」

📿高野山 壇上伽藍・中門「四天王像」

📿高野山・壇上伽藍「中門に使用されたヒノキの切り株」

📿高野山 壇上伽藍・「高野四郎(白鐘楼/大塔の鐘)」

📿高野山 壇上伽藍・不動堂(ふどうどう)

📿高野山 壇上伽藍「清瀧大権現社」と「阿字池」

📿高野山・壇上伽藍「蓮池(はすいけ)」

📿高野山・壇上伽藍「善女竜王社」

壇上伽藍の境内案内図と観光スポット一覧




【豆知識①】高野山の名前の由来

「高野山」と聞けば「高野山」という「山」があるのかと思ってしまうのですが、実は「高野山」という山は存在しないのです。

これがどういうことかと言いますと、現在の高野山の周辺は山々に囲まれています。

その山々とは「八葉の峰」と呼称される連山のことで、「八葉の峰」とは「今来峰、宝珠峰、鉢伏山、弁天岳、姑射山、転軸山、楊柳山、摩尼山」と呼称される8つの山のことを指します。

そしてこれら8つの山に囲まれた内側にできた盆地地帯を高野山と呼びます。

ちなみに「高野山」の名前の由来となったのは、「転軸山」「楊柳山」「摩尼山」の3つの霊峰を総称して「高野三山」と呼称し、これが高野山の名前の由来になっています。

また上述しておりますが、大師は高野山全体を「金剛峯寺(高野山 金剛峯寺)」と位置づけておられます。現在は金剛峯寺というお寺が存在しますが、本来は高野山全体が金剛峯寺になります。

【豆知識②】大師は高野山全体で金剛界と胎蔵界を表現していた?!

実は高野山霊宝館には「高野山蓮華曼荼羅図」と呼ばれる絵図が所蔵されています。

この絵図によれば大師は以下のような構想を取り入れて高野山を開創したと考えられています。

  • 壇上伽藍から奥の院までが➡️金剛界(こんごうかい)
  • 慈尊院から壇上伽藍までが➡️胎蔵界(たいぞうかい)

「慈尊院」とは「じそんいん」と読み、大師・空海の母親である玉依御前(たまよりごぜん)が息子を想い、女人禁制の高野山において入山が許されなかったため、やむなく長年暮らした草庵(そうあん/=質素な住居)のことです。

やがて母ジャが亡くなった後、大師は弥勒仏と習合した母ジャの夢を見て、弥勒仏の別名である”慈尊”から名前を頂戴して、母ジャの菩提を弔うために「慈尊院」という寺院を母ジャが暮らした草庵を改装する形で建立することになるのです。

関連記事: 【内部常時公開!入場料あり】高野山 壇上伽藍「根本大塔」と「立体曼荼羅図」

関連記事: 【弘法大師 空海の母の霊廟】慈尊院(九度山)の歴史や名前の由来とは?

【豆知識③】高野町石は胎蔵界と金剛界とで分けて考えられていた??

現在では登山愛好家でなければなかなか知らない事実かも知れませんが、実は慈尊院から大門を経て壇上伽藍までの道のりは「町石道(ちょういしみち)」と呼ばれており、これは道中の約109メートルおきに目印となる番号が付された「町石」と呼ばれる石碑が建てられていることに由来した呼称です。

この町石は慈尊院から壇上伽藍まででトータル「180町石」存在し、ちょうど180町目が壇上伽藍の根本大塔の前になります。
(町石に記された数字は慈尊院が180町目壇上伽藍は1町

慈尊院から壇上伽藍まで町石道が続く理由は、かつて高野山へ参拝する際、慈尊院前を流れる紀ノ川まで船で来訪して、そこからは歩いて慈尊院を経て→大門→壇上伽藍という流れで歩いたからです。

そして、実は180で終わりではないのです。

・・なんと再び根本大塔を過ぎたあたりに「1町石」が立っているとすれば驚かれますでしょうか?

実はこの1町石は、ここから新たに奥の院の御廟(ごびょう)までの36ある町石のスタートを告げる石碑となるからです。

つまり、厳密には慈尊院から奥の院の御廟まで続いていることになりまする。

しかしここでこんな疑問が脳裏によぎりませんか?

”180”や”36”は何かに紐づいた数字なのか?

実はこれら180や36の数字は、金剛界と胎蔵界に存在する仏の数を表現したものだと考えられています。

  • 金剛界▶️37尊(町石は36まで)
  • 胎蔵界▶︎180尊

高野山に長期間滞在予定の方は是非!慈尊院から大門を経て壇上伽藍へ入り、そこから一の橋を経て中の橋→灯籠堂(御廟)へと歩んでみてください。

町石は36で金剛界の仏は37で1尊足らない理由

  1. 奥の院の御廟を入れて37とする説がある。
  2. 高野山全体を1と考えてカウントして37とする説がある。

なお、これら考え方は高野山独自のものです。

金剛界側と胎蔵界側とで町石道の「一町」の長さが違う!

気づいた方は少ないと思いますが、実は金剛界すなわち、「根本大塔→奥の院まで」の町石の1町の間の距離は約80メートルとされています。

胎蔵界(「慈尊院→根本大塔までの約109メートル」)と比べると30メートルも距離が違うことになります。

この理由はお分かりになりますかぃ?

実は深い意味はなく、昔の信奉者が胎蔵界と金剛界を表現するために、わざと無理やり合わしたそうです。

関連記事:【高野山 町石道の歴史(起源)】五輪塔の形をした180基もの町石の意味とは?本当に道しるべなのか?

壇上伽藍に正式参拝方法が‥あっちゃぅ?

前述したように、この壇上伽藍は大師の思想により、両界曼荼羅に位置付けられることから、伽藍内を右回りで参拝するのが良いとされています。(曼荼羅は東南西北となっている。インドの方角を基軸として描かれている)

具体的には、右肩を金堂内部に安置される御本尊へ向けて、そこから時計回りに回るのが良いとされています。

つまり、金堂から右回りという解釈です。

これは僧侶が袈裟から右肩を出していることに由来したものでもあり、仏教の右繞(うにょう)の礼法に則ったものでしょう。

⭐︎関連:高野山奥の院は「一の橋」から行くのが正式参拝?

⭐︎関連:高野山奥の院「中の橋」から御廟へ行くのはタブー??

⭐︎関連:高野山(奥の院)での正しい参拝の仕方「参拝順序(参拝ルート)・服装」など

高野山 壇上伽藍のINFO

所在地
  • 和歌山県伊都郡高野町高野山152
ホームページ(高野山金剛峯寺)

壇上伽藍の拝観料金・拝観時間・滞在時間

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⭐︎関連:【壇上伽藍の入場料金(割引クーポン一覧)】拝観時間(定休日)と滞在時間(所要時間)を..お知る❓

伽藍へのアクセス

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⭐︎関連:壇上伽藍へのアクセス(行き方)

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