高野山 壇上伽藍「東塔(とうとう)」
創建年
1127年(大治2年)
再建年
1984年(昭和59年)
建築様式(造り)
二重多宝塔
大きさ
高さ:約18m
四辺:約6.5m
発願者
高野山・金剛峯寺
高野山 壇上伽藍・東塔の読み方
東塔は「とうとう」と読みます。
高野山 壇上伽藍・東塔の歴史・由来
壇上伽藍・東塔は、1127年(大治2年/平安時代)に後白河法皇の発願で、「醍醐三宝院(醍醐寺/京都府京都市伏見区)の勝覚(しょうかく/醍醐寺座主・権僧正)」に手によって造営されました。
「東塔」は蛇腹道から壇上伽藍へ入ってすぐの右脇に建っていますが、この配置は創建年当初から変わっていないことが明らかにされていまする。
1843年(天保14年)に高野山内で大火災があり、この時に焼亡しています。
その後、しばらく再建されることはなく、土台となる礎石のみが晒されていたようですが、1984年(昭和59年)に「弘法大師御入定1150年御遠忌記念」の記念事業が立ち上がり、この記念事業の一環で140年経てようやく再建が成っています。
よって、現在見ることのできる東塔は1984年(昭和59年)に再建された時の姿になります。
東塔の建築様式(造り)
西塔や大塔と並び、二重塔(多宝塔)です。大塔と比較すると小規模ですが、高さは約18m、四面各、約6.5mあります。
高野山・東塔のご本尊
高野山・東塔の本尊は「尊勝仏頂尊(そんしょうぶっちょうそん)」です。
尊勝仏頂尊は後白河法皇の身長を計測して等身大で造立された像になります。
また尊勝仏頂尊の脇侍(きょうじ)として両脇に「不動明王」と「降三世明王(ごうざんぜみょうおう)」がお祀りされています。
「不動明王」は知っている方も多いと思われますが「降三世明王」の方はあまり聞きなれない名前の仏様なので知らない方も多いと思います。おそらく祭祀されているのも珍しい仏様です。
まぁそれもそのハズです。この仏様は「真言密教特有の仏様」になるからです。
降三世明王の「三世」とは何を指し示すかお分かりになるでしょうか?
「三世」とはルパン〇〇のことではなく、仏教における3つの強欲を示す「三毒(さんどく)」の「貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)」のことです。
三世(三毒)の意味
- 貪=貪欲(どんよく)
- 瞋=(怒り)
- 癡=(無知)
その他、降三世明王は「過去・未来・現在」を統べる明王で、「過去・未来・現在」においての「三毒」を統べる明王とされています。
この降三世明王が珍しい箇所は他にもあり、ぬっぬっ..ぅわぉ、なんとぉ!!「神様を踏みつけにした姿」で造立された仏像だと言うじゃ、あ~りませんか!!
そしてここでの神様とはインドのヒンドゥー教の最高神「シヴァ神」と、その妻である「パールヴァティー(烏摩神(うま))」になります。
降三世明王がヒンドゥー教の最高神を踏みつけにしている理由
降三世明王の母でもある大日如来は、ヒンドゥー教の未来を案じていました。
そこでヒンドゥー教を救済すべく降三世明王を最高神「シヴァ神」とその妻である「パールバティ(烏摩神(うま))」のもとへ送り込みます。
そして降三世明王は見事!2神を調伏したという訳です。
降三世明王は真言密教における金剛界では東側を守護する明王であり、これは「金剛界五仏(五大明王)」の一尊を意味します。
金剛界五仏(五大明王)
- 東:降三世明王(=阿閦如来/あしゅくにょらい)
- 西:大威徳明王(だいいとくみょうおう)
- 南:軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)
- 北:金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)
- 中央:不動明王(=大日如来)
なお、不動明王(大日如来)を除いたものを「金剛界四仏」とも呼称します。
東塔内部の一般公開について
残念無念ながら、この東塔のご本尊は一般非公開です。
高野山・東塔の場所(地図)
高野山・東塔は壇上伽藍のもう1つの出入り口となる「蛇腹道」を入ってスグに位置します。
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