高野山 壇上伽藍「不動堂」【国宝】【世界文化遺産】

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高野山 壇上伽藍「不動堂」【国宝】【世界文化遺産】

創建年

1198年(建久9年/鎌倉時代後期)

再建年

1834年(天保5年)
1908年(明治41年)
1995年(平成7年)※修理

1998年(平成10年)

建築様式(造り)

入母屋造
前面向拝、左右側面・一間の通り庇付き

※縋(すがる)破風造

屋根の造り

檜皮葺

大きさ

前面向拝:約2m
奥行:約8m
横幅:約6m

国宝登録指定年月日

1952年(昭和27年)3月29日

重要文化財登録指定年月日

1899年(明治32年)4月5日

ご本尊

不動明王

発願者

八條女院

高野山 壇上伽藍・不動堂の読み方

不動堂は「ふどうどう」と読みます。

不動堂の名前の由来

不動堂は堂内に不動明王を御本尊として安置していることから「不動堂」と命名されています。

しかしながら、創建当初から不動明王像を奉斎した不動堂だったのは不明とされています。

高野山 壇上伽藍・不動堂の歴史

この不動堂は、鳥羽天皇の皇女(娘)「八條女院(はちじょうにょいん)※暲子(しょうし)内親王」との発願(ほつがん)により、1198年(建久9年)に真言宗の僧侶「行勝上人(ぎょうしょうしょうにん/木喰上人)」が創建したと伝えられています。

創建後、堂内に「不動明王坐像」と運慶作の「八大童子像」が安置したことから、「不動堂」と命名されています。

行勝上人は平安末期の相次ぐ戦乱により、荒廃していた高野山の伽藍の復興に尽力し、堂塔の再建に携わっています。

しかしながら、この不動堂は創建当初は現在とは違った場所に建てられており、かつて一心院谷に存在した「一心院(いっしんいん)」の不動堂として、建立されています。(行勝上人の草庵が一心院谷あった)

以下、一部、画像:高野山霊宝館より

⬆️江戸時代後期の不動堂が描かれた高野山内の古地図

一心院とは、行勝上人が建立した寺院で、高野山・女人堂の奥に位置する「一心院谷」と呼ばれる場所に存在した寺院ですが、江戸時代に衰微し廃絶したと云われます。したがって今はもうありません。


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なお、この一心院・不動堂には「心字の池」と呼ばれる小さな池が存在し、この池は姿形はとどめていないようですが、往時の影を偲ばせます。

⬆️心字の池

また、往時の不動堂を向かい見て右脇には金輪塔が建っており、この金輪塔は現存しています。(明算検校が創建。現在の塔は1834年に再建されたもの)

⬆️金輪塔(奥)と手前に不動堂

⬆️現在のカラフルふるフルな金輪塔

一心院谷とは?

一心院谷とは、現在の女人堂付近に立つ「金輪塔」の周辺一帯が、かつて「一心院谷」と呼ばれた場所です。

すなわち、この不動堂は現在の壇上伽藍から少し離れた場所に建立されていたことになります。

過去、高野山を幾度か襲った火難を逃れてきた「不動堂」

実は過去に幾度かこの高野山は火災に見舞われていますが、創建当初の不動堂は離れていた場所に建てられていたことが幸いし、類焼が及ばず、現在までその姿を留めることができたことになります。

明治時代に国の重要文化財指定を受ける

この不動堂は鎌倉時代の建立と相まって1889年(明治32年)に重要文化財指定を受けています。

明治時代に現在地(壇上伽藍)に移築される!

1908年(明治41年)に大修理(解体修理)が実施されることになり、その際、上述の「一心院谷」からこの壇上伽藍に移築されてきました。

すなわち明治時代まで女人堂もしくは金輪塔付近に建っていたことになります。

昭和時代に国宝指定を受ける!

1952年(昭和27年)3月29日に国宝指定を受けるに至ってい‥‥‥申す。グホっ

平成10年11月にも全面解体保存修理が行われている

1998年(平成10年)にも全体的に修理が実施されていますが、この時の解体修理により用材の年代判定が行われ、現存する不動堂は鎌倉時代に建立されたという事実ががほぼ確定したようです。

なお、現在の不動堂は往時(創建当初)の材料をほぼそのまま活かし、往時の姿をて復原する形で再建されていますので、鎌倉時代の創建当初の建造物といえることができまする。

高野山 壇上伽藍「不動堂」の特徴

平安貴族の住居のような造り

壇上伽藍の不動堂、他のお堂とは一線を画し、白木造りを基調としながらも内部の色鮮やかな仏画や、縋破風(すがるはふ)を特徴とした優雅な平安貴族の邸宅を偲ばせる造りをしています。

高野山内の建物の中でも、このように少し変わった趣向をもとにして建立されたお堂はありんせん。

すがる破風

ちょっと、この不動堂の屋根の形状をよく見てみてください。

かなり変わった屋根の形状をしており、まるで鶴が羽を開いたような屋根の造りになっています。

この屋根は本堂の母屋部分から支えられる形で外側へ飛び出ているため、母屋に縋る(すがる)と書いて、「縋破風造り(すがるはふつくり)」と呼称されます。

縋破風造は平安期から鎌倉期初頭の建造物に多く用いられた様式で、主に貴族の寝殿造りの屋敷の屋根に取り入れられた様式です。

この堂に、すがる破風を用いる理由は、おそらく御堂の正面両脇に小部屋があるため、それを覆うために屋根を延長させて一間分の通り庇の様相を呈しています。

なお、すがる破風は実用面も兼ね添えているものの曲線を出すなどの手間が掛かることから、優雅に見せる装飾的な意味合いが濃く、まさに意匠とも呼べるべき点に注目したいところです。

この不動堂のみならず、全国津々浦々の社寺境内の建造物にも見られる様式でもあります。


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不動堂なのに「護摩壇」がない!

通例であれば「不動堂」と名の付く建物は、堂内に不動明王を奉斎することから、護摩焚きをするための祭壇(護摩壇)があるハズ。

また、護摩焚きをするので黒く煤けているハズなのですが、この不動堂は素木造りが映えるほど白くキレイな外観をしています。

このような状態が考察の対象とされ、創建当初から不動堂として建立されたものではないとされる説もあります。

内部に須弥壇がある!

内部に須弥壇が1基置かれていますが、この須弥壇に見られる木目漆塗(もくめうるしぬり)や餝り金具(かざりかなぐ)の様式、格狭間(こうざま)の様式などもからも、平安後期や鎌倉前期のものではなく、鎌倉時代後期の特色を示す判断材料とされています。

画像は橋本新聞より

つまり、この須弥壇は創建当初もしくはそれに近い年代に置かれたものとして判断されていることとなり、今からおよそ800年前の須弥壇ということになりまする。

不動明王を奉安する不動堂でありながら来迎壁

この不動堂に内部には「来迎壁」という御本尊の後方で御本尊を支える板壁が存在します。

この事実から創建当初は今はなき一心院の阿弥陀堂として、阿弥陀如来像が祀られていた可能も示唆されています。

来迎壁を備えた須弥壇(しゅみだん)が1基、置かれていますが、この須弥壇の来迎壁の中央には長期間、何かが置かれていたような2つ縦にのびる黒い線状の痕が残されています。

この痕から連想できるものは「厨子(ずし=大きな箱)」です。

この事実から、かつてこの厨子の中に「阿弥陀如来像」もしくは「阿弥陀三尊像」が安置されていた可能性が考えられています。

見る角度により形状が変わる!

この不動堂は後述する、「すがる破風」という珍しい屋根を備えていることから、見る角度によっては建物の形状が変化し、インスタ映えが増します。

ぜひ、いろんな角度から楽しんでみてくだすわぁぃ

不動堂の内部の様子や建築様式(造り)

身舎は正面三間、奥行四間、建物両側に小部屋が設けられています。

屋根はヒノキ材を敷き詰めた檜皮葺き(ひわだぶき)になっており、屋根は二軒繁垂木(ふたのきしげたるき)で組みあげられています。

堂内には木目漆塗に飾金具を打った須弥壇(しゅみだん)を配置。

御堂に使用されている用材は彩色がない素木造り。

内部の天井は折上式の小組格天井が採用されてい‥‥‥申す。

⬆️不動堂の内部写真  画像提供:高野山霊宝館

上掲の写真(画像)を見れば分かるように堂の内陣中央に須弥壇が置かれ、その上に不動明王像が見える。

天井は堂全体にゆきわたって小組格天井だが須弥壇のある内々陣のみ折上げ式の小組格天井になっているのがよく分かる。

画像提供:高野山霊宝館

外観

出入口正面の向拝の下からは素木造りの上下開閉式の蔀戸(しとみど)が見えます。その蔀戸の奥には手前に開閉する唐戸(からと)が見えます。

このような唐戸や蔀戸は平安期以降に中国から伝来した建築様式となり、天皇の御所などにも見える貴族の邸宅様式です。

地面から屋根(棟)までの高さも時代を経るごとに高くなっていきますが、このお堂は低く、四方へ平べったく広がっています。

以上を総合してみても平安期から鎌倉期に造営された建造物の特徴がよく出ているといえます。

このような縋破風付きの建造物はそうはありませんので高野山へ訪れた際は是非!お見逃しなく!

蟇股(本蟇股)

⬆️不動堂の蟇股。唐草模様が見える。

上掲写真のような上部が中割れしている蟇股を「本蟇股」という。平安時代に流行した様式。巻斗がその上に乗る。古式の蟇股。


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不動堂が建てられた理由とは?

実は、この不動堂、現代に至るまでの謎があり、建立された目的が一切不明なんだそうです。

上述したように、不動明王を祀る不動堂であれば護摩壇が護摩行を行うので、煤の匂いが内部には立ち込めているのですが、その気配はなく、ほかに薫香(くんこう/香料)の残香や付着した痕跡もなく、僧坊(住坊)として利用された形跡もないことが判断材料となってい‥‥‥申す。フバっ

近年の調査で判明!貴族の御霊を祀るための儀式が行われる場所だった?!

近年発表された高野山大学の学説によれば、この不動堂は貴族が逝去した際、この中に遺体を安置し、その御霊を極楽浄土へ送り届けるような儀式が執り行われていた事が明らかにされています。

また、現在、不動堂の本尊として安置されていたとされる不動明王像や八大童子像(後述)をこの建物の中へ安置したことから、単に「不動堂」と呼びならわしただけだと言う見方が濃厚となっています。

つまり、元来、お堂として建立されたのではなく、貴族の住居として建造された建物ということになりまする。

ただ、御霊を極楽浄土へ送り届ける儀式や来迎壁、そして厨子の話が入り混じってくると、往時は阿弥陀如来を本尊として厨子に安置し、これを奉斎していた可能性も捨てきれなくなりまする。

もう1つ今回の調査で明らかにされたことは、高野山がこの建物が建てられた鎌倉時代、貴族たちの庇護を受けていた事実が垣間見え、ちょうど一心院谷のあたりに塔頭を建立し、これを広げていこうとしていたという想定があったことです。

高野山 壇上伽藍・不動堂のご本尊は「不動明王

画像提供:高野山霊宝館

鎌倉時代の彫刻家・運慶の手による「八大童子像」と、本尊である「不動明王」が祀られていることに由来して「不動堂」とされています。

御本尊の木造不動明王坐像は、像高87㎝、行勝上人の作と伝えられています。

不動明王の脇侍として左右に「八大童子像」が安置される

八大童子は不動明王に随従する8人の童子のことをいいまする。

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八大童子一覧

慧光(えこう)、慧喜(えき)、阿耨達(あのくた)、清浄比丘(しょうじょうびく)、鳥倶婆誐(うぐばが)、矜羯羅(こんがら)、制多迦(せいたか)、指徳(しとく)と言い、現在、不動堂ではなく、壇上伽藍付近に立つ霊宝館にて収蔵されています。

なお、この八大童子像は運慶作とされていますが、厳密には慶派仏師も造立に参加しており、すべての造立に運慶が携わったのかは謎とされていますが、矜羯羅・制多伽童子像の両像は当時の運慶の作風が最もよく表現されているという風評があります。

八大童子像に関しては当サイトの以下の別ページにてご紹介しております。

 関連記事:高野山・金剛峯寺「八大童子像」【国宝】

高野山 壇上伽藍「不動堂」の内部の一般公開について

この不動堂は平時は一般公開されることは皆無ですが、以下の年に内部が一般公開されています。

平成24年(2012年)

平成25年(2013年)

平成26年(2014年)

いずれも平成27年春に開催された「高野山開創1200年記念大法会」を記念した特別公開でした。

高野山 壇上伽藍「不動堂」の場所(地図)

高野山 壇上伽藍・不動堂は蛇腹道から入ってきてしばらく進んだ左脇、ちょうど高野四郎(大塔の鐘)の奥になります。蓮池のほとりに位置します。

壇上伽藍の見どころ一覧

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