高野山・奥の院「覚鑁坂」【こうや七不思議】
覚鑁坂の読み方
覚鑁坂は「かくばんざか」と読む。別名で「三年坂」と呼ばれる。
「覚鑁坂」の名前の由来
「覚鑁坂」とは奥の院の「中の橋」を渡った先に出てくる石段の坂道のこと。
この石段を数えると全部で43段あり、ちょっとした「恐怖の由来を持つ坂」でもある。
この橋には以下のような3つの言い伝えが残されてい‥‥‥申す。カピャっ
1つ目の説では、実はこの「覚鑁坂」は本来42段であったのだが、42は「死に」と言い換えられることから縁起が悪いとされ、1段追加されて43段になった。
2つ目の説では、「43」は「42(死に)」を乗り越えた数であることから、43段昇りきることができれば死を乗り越えたことになり、死後は極楽浄土へ行って生まれ変わることができる。
3つ目の説は、縁起が悪い説になる。なんでもこの坂の途中で転んでしまうと・・なんと!「3年以内に命を落とす」と云われ、それゆえ別名で「3年坂」と呼ばれる。
嘘のような本当のような事実関係は定かではありんせん。
しかし、時代を下ると様々な言い伝えが、もて囃され(もてはやされ)て広まるものです。
ただ、万が一と言うこともあるので「ヒール」での通行はなるべく避けるようにして、激しく臭く、キノコが生えていても良いので可能な限ぅぃ、運動靴(スニーカー)を履いておきましょう!
覚鑁坂の名前の由来・意味
覚鑁坂の「覚鑁(かくばん)」とは、高野山にて座主までのぼりつめ、後世では「興教大師(こうぎょうだいし)」と呼ばれたほど有名になった高僧のこと。オホっ
覚鑁が建てた有名な寺院として「和歌山県岩出市」に位置する「根来寺(ねごろでら)」がある。
根来寺と言えば、「根来衆(ねごろしゅう)」と呼ばれる鉄砲を携持した僧兵が有名で、織田信長の歴史をたどる上で必ず行き着く名前でもある。
この覚鑁が建てた御堂に「密厳堂(みつごんどう)」と言うお堂があるが、ちょうど建っていた場所が現在の覚鑁坂を登りきった先にあったと云われる。
それゆえ、「覚鑁坂」と呼ばれるようになった。
ちなみに密厳堂はまさに覚鑁坂をのぼりきったあたりに現存しているが、これはかつての堂で無く再建されたもの。
密厳堂は1140年(保延6年)に焼失しており、往時の名残をヒッソリそりそりヒゲ剃り深ぞっちまったぜぃ‥‥‥てなほどヒッソリと今に伝えている。
高野山・奥の院「覚鑁坂」の場所(地図)
覚鑁坂は奥の院の参道途中の「中の橋」を超えた先に位置
。また覚鑁坂の途中には同じく「こうや七不思議」のスポットである「姿見の井戸」「禅尼上智碑」などもあるのでお見逃しなく!うきゃ
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