高野山・金輪塔
創建年
不明
推定:10○1年(永承○年)以後〜1106年(嘉承元年)以前(案内板の文字がかすんでいて見えない)※平安時代後期
再建年
1834年(天保5年江戸時代後期)
大きさ(高さ)
塔高:約18.5m(塔頂の相輪を含める)
四辺の各面:約4.5m(二間半)
建築様式
2重宝塔
屋根の様式
檜皮葺
発願者
明算(再建時)
読み方
「きんりんとう」
金輪塔とは?
金輪塔とは女人堂もしくは徳川家霊台付近に位置する「金輪公園」というミニ公園の中にある摩訶不思議な多宝塔です。
金輪塔の名前の由来
金輪とは、金属製の輪を意味することから、外観だけで判断すれば単純に金色に光り輝く「相輪(そうりん)」が塔頂に備わることが由来になっているような気もします。
しかしどうやらそうではなく、「金輪仏頂尊」という仏様が内部に奉安されたため「金輪」の名前が付されたようです。うきゃ
金輪塔の歴史
この塔の創建は資料が乏しいことから不詳とされているようですが、内部に安置されていた本尊とされる「一字金輪仏頂尊坐像」が平安時代末期に、奈良仏師の手により造立されたとされることから、およそ平安時代後期〜鎌倉時代前期に建立された塔だと推定されてい‥‥‥申す。ガハっ
現在の塔は1834年(天保5年江戸時代後期)に再建されたものである。
金輪塔を造った人(建てた人物)は誰?
高野山・中興の祖といわれる明算(めいざん)という僧侶が創建したと伝えられてい‥‥‥申す。グホっ
明算はのちに高野山12代目の検校(けんぎょう/山内すべての支院を総括する座主のこと)に就任してい‥‥‥申す。グハっ
明治時代まで金輪塔付近に不動堂が建っていた!
なんと!現在、壇上伽藍に建っている国宝指定の不動堂がこの金輪塔のすぐ横に建っていたといえば驚かれますでしょうか?
下掲の画像(写真)をちょぃとご覧くだせぇ、明治初期に撮影されたものです。
画像引用先:高野山霊宝館
ちょっと白黒写真でわかりづらいのですが、これを見れば金輪塔の手前に不動堂の姿が見えます。
不動堂は明治時代に解体修理が行われることになり、その折、古材をそのまま活かす形で創建当初のままの姿で壇上伽藍内に復原される形で移築されていまする。
金輪塔の御本尊「金輪仏頂尊」とは?
金輪塔の本尊は金輪仏頂尊坐像(一字金輪仏頂尊坐像)とされ、現在、霊宝館に奉安されてい‥‥‥申す。ゴハっ
ちなみに本像の所有者は霊宝館ではなく「金剛峯寺」。
関連記事:高野山・霊宝館【登録無形文化財】
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一字金輪仏頂尊とは?
「一字金輪仏頂 (いちじきんりんぶっちょう)」と読み、仏頂尊の一尊とされまする。
梵名は『エーカークシャローシュニーシャチャクラ (एकाक्षरोष्णीषचक्र [ekākṣaroṣṇīṣacakra)』。
仏頂尊とは、仏の果てなき智慧(ちえ)を仏格化したと仏のことといわれる。
「一字」の意味
この仏は由緒が珍しく、一字の真言『ボロン(भ्रूं [bhrūṃ])』を神格化した仏とされる。
ボロンとは、深い瞑想の末、悟りの境地に達した如来が見出した梵字であり、この仏の尊名に付される「一字」の由来になっていまする。
金輪の意味
金輪とは古代インドにおける理想的な王(転輪聖王/てんりんじょうおう)の中でも、もっとも優れた王である「金輪王」を意味すると解される。
一字金輪仏頂は2種類ある
この仏は、「如来形の釈迦金輪(しゃかきんりん)」と「大日金輪(だいにちきんりん)」という2種類の御姿で表現される。
一字金輪曼荼羅
この仏の信仰に由来したもの1つに「一字金輪曼荼羅」というものがありまする。
この曼荼羅では一字金輪曼荼羅を中心に据え、転輪聖王の有する7つの宝(金輪、如意宝珠、女宝、馬宝、象宝、主蔵宝、主兵神宝)も描かれまする。
画像引用先:https://ja.wikipedia.org/
この一字金輪曼荼羅の図様では、 中央に大日金輪を描き、それを囲むようにして仏眼仏母および転輪聖王の七種の宝が描かれてい‥‥‥申す。グハっ
金輪塔が建てられた理由
この金輪塔は由緒が判然としないことから、一説には高野山を中興した明算上人の功績を讃え、霊廟(廟所)として築いたものがこの金輪塔の正体とも考えられてい‥‥‥申す。
金輪塔が建てられた場所はかつて一心院谷と呼ばれた場所
この金輪塔は明算上人の廟所として建立されたという説があるとおり、実は、現在の金輪塔が建てられた場所はかつて「一心院谷」と呼ばれた場所でした。
「一心院谷」の名前から拝察できる通り、往時はこの場所に「一心院」という寺院が建っていたとされ、その一心院の開基&住職こそが明算上人だったと伝えられている。
この一心院にかつて建てられていた不動堂については別のページで詳しく解説しているが、不動堂は元来、堂舎ではなく、貴族の邸宅をイメージで建立されたとみられており、実際、堂内にて貴人の葬送に際しての何らかの儀式が執り行われていたことも明らかにされている。
高野山大学の調査によれば、往時の貴族たちはこの一心院谷に塔頭(たっちゅう/支院)を築き、高野山内にて当寺院の伽藍を広げていく計画があったことをほのめかしている。
つまり、貴族たちが当時、高野山内にて確固たる立場にいた明算上人を開基に据え、一心院という寺院をこの一心院谷に創建したという説が浮上する。
しかし残念ながら、一心院は江戸後期に廃絶しており、はたまた、高野山は過去、複数回にも及ぶ火災により、焼失した資料もあることから、今となっては調査が難航しているのは言うまでもない。
金輪塔の建築様式(造り)や内部の様子
外観
上層
上層、高欄を据え付けた回縁の腰組に平三斗(ひらみつど)と中備に間斗束(けんとづか)を据える。
塔の組み上げ方についてイマイチ理解が進まないが、どうやら平三斗に貫材のような図太い棒を中心の心棒から通している意匠。だから一見すると出三斗にも見える。
その下に目をやると銅板を張り合わせた亀腹が見える。江戸期に再建された時に据え付けられたのだろうか。
高欄上には四手先組物が見えるが、これはこのような二重多宝塔ではよく見られる様式である。
全体的に見わたしてみると、彩色なしの質素な白木造り。
下層
出組を等間隔に用い、中備はなし。
木目を生かした羽目板を用いた白木造りで彩色は用いない意匠。
屋根は二軒繁垂木(ふたのきしげたるき)の様式。
六葉のサビが白木に混じり星霜経た独特の風情を醸す。
錆びた擬宝珠付きの高欄を据えた縁を四辺へまわす。連子窓に桟唐戸の扉が見える。禅宗寺院の道場を彷彿させる造り。
内部の様子
漆塗りの円柱式の4本の柱(四天柱)が立ち、天井には格天井が据えられてい‥‥‥申す。コケっ ニワトリか
なお、この金輪塔は普段は一般公開されておらず、閉扉されており、内部は拝めません。
金輪塔の場所(地図)
金輪公園
この金輪塔は驚くことに寺院の境内ではなく、「金輪公園」という公園の中に建っている。
その上、この公園は人影少なく、わりと思い存分に観たり写真撮影に励むことができるであろぅ。ふぉっふぉっふぉっ…..
それとこの公園の片隅にはベンチとトイレが設置されている。(男女兼用)
遊具もあるので子連れの際の休憩に利用できる。
弁当持参であれば、女人道を経て女人堂を参拝した後に弁当を食べる休憩場所として利用しても良い。ふぉっふぉっふぉっ….
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