高野山 「大門(だいもん)」【重要文化財】

スポンサードリンク

高野山 「大門(だいもん)」【重要文化財】

創建年

不明
推定:1141年(永治元年/平安時代)

再建年

1230年(寛喜2年/鎌倉時代)
1640年(慶長9年/江戸時代)
1705年(宝永2年/江戸時代)
1986年(昭和61年)

建築様式(造り)

入母屋造り
※二重門
※五間三戸

大きさ

高さ:約25.1m
横幅:約21.4m
奥行:約10m

屋根の造り

銅瓦葺(瓦棒葺き)

重要文化財指定年月日

1965年(昭和40年)5月29日

発願者

創建当初は不明
安土桃山時代は木食応其

高野山・大門の読み方

高野山の境内には難しい漢字の表記で読みにくい名前のご本尊や堂舎がありますが、大門は「だいもん」と読みます。なお、「高野山 大門」ではなく「金剛峯寺 大門」と呼称するのが正式名称となるようです。

寺院の大門は通例であれば「南大門」や「山門」「仁王門」に値しますが、高野山の場合は「大門」です。

しかし当然、大門があるいうことは、その内側に「中門」があるということですが、高野山の中門こそが、壇上伽藍の中門になります。

これは高野山全体が1つの伽藍であり、寺院であるという大師の認識のもと、それを具現化した位置付けとされています。

高野山・大門の歴史

この大門は「高野山町石道(ちょういしみち)」のちょうど終着地点に建てられている門であり、ここからが本当の聖地・高野山であるということを示す門でもあります。現に大門をくぐれば高野山の町並みが見えます。

高野山町石道とは、麓の慈尊院前の船着き場から大師・空海の母ジャが建てたとされる慈尊院(じそんいん)を経て、→この大門を通り抜けて→、高野山の中心でもある「根本大塔」までを結ぶおよそ22kmの道のことです。

この道の約109メートルおきには「町石(ちょういし)」と呼ばれる石碑が建てられており、かつてはこの石碑を目印としながら、迷うことなく山頂となる根本大塔を目指すことができたとされています。

高野山町石道のおよそのルート(地図)

慈尊院前の船着き場(橋本/=橋本市)⏩慈尊院(九度山町)⏩天野辻⏩笠松峠⏩笠木峠⏩高野山大門(高野町)⏩根本大塔(壇上伽藍

まさにかつての高野山のシンボル的な門だったと位置づけることができます。

他にも、紀の川流域から「西高野街道」を通って大門まで通じる道や、有田川流域から大門に向かう道もあったとされており、これらの道の多くは戦国武将たちが高野山へ盛んに寄進を行った室町時代〜江戸時代にかけて整備されたものです。

高野山・大門の創建年

この大門の創建は古く不明とされていますが、1313年(正和2年)に後宇多天皇が参拝したときにはすでに建っていたとされることから、少なくとも1313年(正和2年)以前には存在した門ということになります。

往時の高野山は2000余数の寺が林立し、伽藍の外れに位置するこの大門の周辺にでさえ、30余数もの寺院が軒を連ねたようです。

高野山の寺伝によれば1577年(天正5年)に焼失、1640年(慶長9年)木食応其上人(もくじきおうごしょうにん)によって再建されたとの記録が残されているようです。

「木食応其(もくじきおうご)」とは、高野山中興の祖として知られ、外交・勧進活動や連歌に秀でた高野山の高僧のことです。かつては近江国を統治していた六角氏に奉公する武将でしたが、1573年(天正元年)の38歳の時に高野山・宝性院の勢誉(せいよ)から受戒を受けて僧侶としての道を歩んでいます。

このとき名前を「応其(おうご)」と改め、さらにこのとき、穀物を口にしない「木食行」を行う誓いをたてたことから「木食応其」とさらに名前を改めています。

1591年(天正19年)には、「木食応其上人」の発意にて改修が実施されています。

1688年(元禄元年/江戸時代)にもこの大門は全焼してしまいますが、1700年(元禄13年)5月に再建が開始され、1701年(元禄14年)7月には中柱の立柱、1703(元禄16年)9月に上棟式、1705年(宝永2年)に無事、落慶を迎えています。

1818(文政元年)には屋根と屋根両端の箱棟の修理が実施されていますが、この時、白木の状態で再建されていた門全体の表面に丹塗りが施されており、創建当初の状態に戻されています。

なお、現在見ることのできる大門は「弘法大師御入定1150年御遠忌(ごえんき)」を記念して、1895(明治28年)に再建されたものになります。この再建は5年3ヶ月もの歳月をかけて全面解体修理が行われ、屋根の修理および2階の縁廻り、1階の側柱などの根継修理が実施され、1986年(昭和61年)に無事、完成を迎えています。

えぇっ?!大門の前身は「ただの鳥居だった?!」

創建当初は現在の大門より手前の町石道を数百メートル下った場所に位置する「九折谷(つづらおれだに)」と呼ばれる場所に、かつて現在の大門の前身となる鳥居があったとのことです。

以後、1141年(永治元年)に現在のこの場所に、鳥居から門へと容姿が変更される形で造営され、その後、1230年(寛喜2年)に現在見られるような五間三戸の2階建ての二重門になったとのことです。

昔は大門から先に女人は入れなかった

この大門はあの世とこの世の境目に立つ門とされていた背景もあり、高野山の結界の要でした。

鎌倉時代の文献によれば上皇が登山してきたとき、連れの家来衆の中に男装した女性が紛れ込んでいたそうな。

その女性、よほど高野山へ行きかかったのか、大門の内側へ入ってしまったとな。

すると急に黒雲が現れて太陽をさえぎりはじめ、たちまち悪天候になったそうな。

それの様子を見た高野山の衆徒たちは異変を察知し、その女性を大門の門外へ追いやったそうな。

すると嘘のように空が明るくなり、太陽がふたたび射し始めた‥‥という故事がありまする。オホ

しかしながら、江戸時代になると緩和された感があり、大門をくぐって10メートルくらいまでは進めたようです。

理由は後述していますが、大門をくぐった先にお寺が軒を連ねていたからでしょう。

大門の手前には女人堂が建っていた

往時はこの大門の前、門脇に女人堂が建っていたようです。かつて、大門の前の道は「龍神道」と呼ばれ、龍神方面へ行く参拝者多かった。

それもそのハズで中世の時代、この大門は高野山の表玄関とされたまさに俗界と仏の世界とを分け隔てる神聖な門とされたのだろう。

大門の間口は3つ!中央を通行すると追い出された?!

大門は中央には人が通行できるように潜れるようになっており、間口が3つ空いています。

しかし本来、この間口のうちの中央部分は神様が通る道だとされ、参拝者は左右両端の間口を通行したのです。

もし中央を通行して、その姿を見られたら、心得が無い不届き者とされ、問答無用で締め出されたようです。

ただ、高野山の場合少し違った俗信があり、なんでも高野山内で狼藉を働くなど罪を犯した者は大門の中央の間口から門外へ追い払われたようです。

このため往時は中央は罪人の道としてお忌みがられ、左右の間口を通行したとのこと。

大門をくぐった先に奥の院があった?!

現在、奥の院といえば壇上伽藍のさらに奥、中の橋のさらに山奥になりまするが、実は平安時代後期はこの大門をくぐった先が奥の院でした。

大門の前には空き地が広がっていますが、この空き地は昭和35年に行われた大門脇の道路の工事の際、なんとぉぅっ!地中から大量の骨壷が発見されたそうな。

後々の調査にて明らかにされた事実が、およそ平安後期から鎌倉時代、高野山全体を見た時、大門が西方の端にあたることから、当地が高野山における西方浄土に見立てられ、奥の院として骨壷を埋めていたとのこと。

この根拠としては、目のつくところで高野山は真言宗の聖地でありながらも大日如来ではなく、阿弥陀如来を本尊に据えている寺院が8割以上存在します。

つまり、かつては西方浄土を司る阿弥陀如来を信仰していたことが垣間見え、浄土信仰が広まっていたこと背景がうかがえます。

大門のくぐった先にお寺が無数に建っていた?

大門をくぐった先は空き地が広がっているのが分かりますが、江戸時代初め、この空き地には約30余数のお寺が軒を連ねていたようです。

ただ、お寺といっても現代のお寺のイメージとはかけ離れたような2畳半〜3畳くらいの小ぢんまりとしたミニお寺だったようです。

江戸時代初頭実は高野山内には2000を超す寺が軒を連ねており、およそ元禄期を境に徐々に数を減らし、江戸時代後期を迎える頃には600ぐらいになっていたようです。

このうち明治維新・神仏分離・廃仏毀釈の荒波を乗り超えた寺院はわずか150くらいだと云われ、そこから現在の117ヶ寺に至りまする。

高野山・大門の建築様式(造り)

大門は屋根が1階部分と2階部分とで2つ屋根がありますので、正式には「楼門造り」ではなく「二重門」になります。高さは25.1メートル、横幅が21.4メートルと仏閣の門にしては大規模なスケールを持つ門構えです。

門全体は三手先の出組が用いられ、長押や貫には禅宗様を示す渦巻き模様や、極彩色で描かれた波文様や牡丹(ぼたん)と思われる花模様が描かれています。

中備えには極彩色で装飾された透かし彫りの蟇股(かえるまた)が据えられており、その蟇股には、「孔雀」、「ウサぴょん(訳:=ウサギ)」、「如意宝珠(にょいほうじゅ)」、「竹とタケノコ」などが透かし彫りで造形されており、その上さらに極彩色が施されています。ウサぴぃょぉ〜〜ん

⬆️阿形の仁王像の上にある蟇股の透かし彫り

⬆️吽形の仁王像の上にある蟇股の透かし彫り

⬆️孔雀?と思われる。場所は「右から左から2つ目の間口上部」

  ⬆️噂のウサぴょんの透かし彫り。場所は「右から2つ目の間口上部」⬆️蓮の花だろうか?

門の表側には仁王像が安置され、裏側には仏像や狛犬などは安置されておらず、間口のみが設けられています。

また、門の右端にはハシゴが配備され、2階に上がれるようにもなっています。

⬆️ハシゴがあるが柵があるため、関係者以外立ち入ることはできない。惜しい

昔の大門は黒色だった

実はこの大門、1986年(昭和61年)行われた解体修理の時は現在のようなまばゆいばかり朱色ではなく黒色でした。

朱色にされた理由は古地図に描かれていた大門が朱色をしていたからなんだそうな。

仁王像

門の表側には仁王像が安置されています。この仁王像は、阿形(あぎょう)を江戸時代の仏師「康意(こうい)」が、吽形(うんぎょう)を「運長(うんちょう)法橋上人」が造立したと伝えられています。

⬆阿形の仁王像

⬆吽形の仁王像


スポンサードリンク -Sponsored Link-






聯(れん)という看板と「書かれた文字の意味」

大門の通行口となる3つの間口を表側から見れば分かりますが、通行口の2つ柱に聯(れん)が対になった対聯(ついれん)と呼ばれる看板が掲げられています。

この看板には以下のよう文字が書かれています。

日々の影向(ようこう)を闕(か)かさずして

処々(ところどころ)の”ゆいせき”(遺跡)を検知(けんち)す

「影向(ようごう)」とは「神仏が仮の姿をして現れる」、闕は「欠かさず」を意味し、遺跡は”いせき”と読まずに”ゆいせき”と読み、これは「過去の人物が残した財産、所領、地位」を示します。

これらを合わせると、『日々、神仏が姿を現して、縁のあった場所を巡りながら人々を助けている』という解釈になります。

しかし、これでは何を意味するのかが分かりませんが、高野山で第一にお祀りする神仏と言えば、やはり弘法大師・空海その人です。

すなわち、『日々、お大師さまが奥の院(御廟)から姿を現して、縁のあった場所を巡りながら人々を助けている』という解釈になります。

なお、この柱聯の文字は「後宇多天皇」が揮毫したものだと伝えられ、はたまた、”日々の影向”という言葉は大師の甥であり弟子の「真然大徳」が著した「阿波国大瀧寺縁起」にも見られることから、一説では大師が考えた言葉だとされる説もあります。

  • ※太龍寺=徳島県阿南市加茂町

大門表側の扁額

さらに大門の表側には扁額が3つ掲げられています。向かって右側から「高」「野」「山」と書かれた扁額が3枚飾られています。

いよいよここからが本当の聖地であることを、このような看板を用いることで強く示唆しています。

高野山・大門の場所(地図)

大門は壇上伽藍の中門の前に道(ファミリーマートがある道)を「大門」の案内看板の方向へ直進するだけで到着できます。壇上伽藍中門から大門までは徒歩約8分の距離です。

高野山・大門へのアクセス(行き方)

高野山・大門の最寄りバス停

  • 南海バス「大門」下車、徒歩約30秒

もしくは

  • 南海バス「大門南駐車場」下車、徒歩約5分

奥の院前バス停(中の橋)から→大門バス停までの所要時間と運賃

  • 所要時間:約12分
  • 運賃:300円  時刻表
金剛峯寺前バス停から→大門バス停までの所要時間と運賃

  • 所要時間:約5分
  • 運賃:170円  時刻表
金堂前バス停(壇上伽藍)から→大門バス停までの所要時間と運賃

  • 所要時間:約3分
  • 運賃:140円  時刻表

金剛峯寺から大門までアクセス(行き方)

  • 所要時間:約8分
  • 距離:650メートル

壇上伽藍から大門までのアクセス(行き方)

  • 所要時間:約8分
  • 距離:650メートル

大門に関する問い合わせ先

現在の大門は金剛峯寺(こんごうぶじ)が管理されていますので、正式には「金剛峯寺・大門」となります。

高野山・金剛峯寺

住所:〒648-0294 和歌山県伊都郡高野町高野山132
電話番号:0736-56-2011
営業時間:夏季8:00~17:00/冬季8:30~16:30
URL:https://www.koyasan.or.jp

【補足】その他の大門の見どころ

3体のお地蔵さん?

大門を向かい見て左脇には3体仲良く並んだお地蔵さんが鎮座しています。

お地蔵さんをよく見れば実はお地蔵さんではなく、石碑であることが分かります。石碑にはそれぞれこう書かれています。

「嶽弁財天」、「清水不動尊」、「三宝荒神」と。

さらにこの石碑の横には「嶽弁才天社(だけのべんざいてんしゃ)」と書かれた扁額が掲げられた鳥居が立てられています。

これはつまり、この鳥居をくぐって「女人道」を進んだ先にある「弁天岳」山頂の「嶽弁才天社」へ通じる参道であることを示唆しています。

「大門口女人堂跡」と「大門口女人道」

上述したように大門を向かい見て左脇には現在も「大門口女人道」と言う女人道が現存しており、この女人道を進んだ先には、かつて存在したとされる「女人堂跡」が史跡として残されています。

ただし、史跡とはいえ、現在では「大門口女人堂跡」と書かれた看板のみが残されているのみで、他には何もありません。鳥居が数本建てられているのみです。

なお、この女人道は高野山内の周囲を巡れるようにグルッと1周できるようになっていますが、この大門口の女人道を約30分歩いた先には「弁天岳」と呼称する山の頂に着くことができます。

大門から→嶽弁才天社を経て→女人堂までのルート

弁天岳の頂上には「嶽弁才天社(だけのべんざいてんしゃ)」という小さな神社がありますので、時間がある方はぜひ!立ち寄って参拝してみてください。

帰りは来た道を引き返すのではなく、もう1つ山を降る道があります。進んだその先には、高野山内で唯一、現存している「女人堂」の前に出てこれます。

注意点としては、舗装されていない完全な山道となりますので、登山をするような装備が必要になります。途中、獣道のような、かろうじて道と呼べるような道もあり、崖づたいを歩く道もありますので充分に検討した上で訪れてください。

大門前からの景色の眺望

この大門の前には小さい規模ですが、展望台が設置されており、景色の眺望を楽しむことができます。

なんといってもこの大門が建つ場所は、なんと!標高約900メートルの場所であり、澄み渡るような晴れやかな日には、紀淡海峡やその向こうの淡路島、さらにその向こうの四国までもが見えます。

また、夕方には何故か不思議と麦茶が飲みたくなるような美しい夕日も見ることができます。意味不明

なお、この大門前の展望台から見れる夕日は「日本夕陽100選」や「和歌山県 朝日夕日百選」に指定されているほど美しい夕日が見れる場所でもあります。

ただし!淡路島や四国は肉眼では少し見えづらいので望遠鏡やポケットグラスのようなもの必要になります。高野山へ訪れる際は望遠鏡やポケットグラスをお忘れなく!

ちなみにこの展望台の右側は慈尊院へ続く道となっており、この道こそが上述した「町石道」になります。この展望台からさらに大門を経て→壇上伽藍→根本大塔まで続く道のりです。

スポンサードリンク -Sponsored Link-

    

当サイトの内容には一部、専門性のある掲載があり、これらは信頼できる情報源を複数参照し確かな情報を掲載しているつもりです。万が一、内容に誤りがございましたらお問い合わせにて承っております。また、閲覧者様に予告なく内容を変更することがありますのでご了承下さい。

関連コンテンツ